申し上げ候!

詩が謂わんとする処 

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阿弥陀仏如来と親鸞

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法 雷

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投稿 2012 10 09

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法  雷

HOURAI

 

法雷Ⅰ

 

法雷Ⅱ

 

法雷Ⅲ

 

 

*光明   ひかり

 

 

 

詩集 【人生に舞う】 より 

 

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申し上げ候

 

法     雷

HOURAI

 

 

万物すべてが何億年も経て、その環境に適応してゆく習性をみにつけ、現在に至っ

ている。その安住の地は自然界の摂理に順応した現れであろう。

自然界からすべてを学び、子孫繁栄を願い、平和のなかで共存していくのが万物共

通の使命であるという。だが、われわれ人間だけは、この無常の世を個々の都合思

想にあてはめ生きてきた。

その思想こそ自然界の教えを無視してきたといっても過言ではない。

万物は瞬時に出現しては消滅する無辺の出来事に毎時遭遇している。

避ける事などできはしない出来事を、この無常の世において甘んじて受けなければ

ならないのである。何気なしに日々過しているが、よく考えてみると、毎日毎日、

われわれは大変な重労働をこなしているともいえる。

 

そんな世を創造した神とおぼしきものが、人間が住むには過酷すぎる極寒の地か

ら、身体の水分をすべて奪いかねない灼熱の砂漠まで存在させている。

どのような環境であろうと、それも必要性から創造されたに違いない。

その必要性に人類がまだ気づいていない。

きっとある日突然、その片鱗を見せる出来事がこの世に出現する時がくるのではな

かろうか。地球崩壊の「救世主」としてヒーローの如く現われるかもしれない。

また不思議に、そのような環境においても生物の生命の営みがある。

その営みこそ、何億年も繰り返し行ってきた生命進化の証しであろう。

と、思えば、シーラカンスのように億年も進化せず現在に至っている生物もある。

生命進化の神髄は何と深遠なことであろうか。

 

いまだ未開の闇といわれる深海にもいずれ新しい生命の存在が確認される日もくる

であろう。そんな地球上において、深海の比でない深い闇のなかで生きている生物

がいる。それが、われわれ人間である。 無明・煩悩の闇のなかで・・・。

その深き闇に潜入し、一灯の灯りを点してくれる人など一人もいない。

自ら一灯を投じなければならないのである。これもある意味では、過酷といえばい

えないこともない。 出来事の数とその原因は比例している。闇の原因も例外ではな

い。その原因を探ろうともせず、一灯を得ようなどという愚かな考えからは、ロー

ソク一本の灯りとて得ることなどできはしない。

 

「自分の根を知る。」ということばがある。

自分の根とは無意識層から意識層を貫いて伸びている無明の根であるという。

その無明の根、無知の根に咲く花が煩悩花である。

いつも煩悩花を満開に咲かせていることにさえ気づかぬ、われわれだから、


なまぬるい世相の湯につかり                  (自己紛失)

生あたたかな利己の息を吐き散らし     (利己主義)

汗ばむ舌に利をからめ                           (利益優先)

みずから高い垣根を築き                       (人間関係の拒絶)

世間を遠くから眺めている                    (興味本意)

のである

 

地球の風は西から東へとやむことなく吹き続けている。

法もまた途絶えることなく自然界と一体となり、一陣の風となって人々のこころの

なかに吹き続けてきたのではなかろうか。

真理はいつの世も無言に訪れ草木一葉も揺らすことなく過ぎてゆく。

人々はこの貴き教えに気付かず時流のなかで見殺しにし、こころに法の屍を野積み

にしてきたのである。そんな人間の愚かな行為に、大自然の意識は自己回帰復活劇

を、いままで一世紀に一回は演じてきたという。

その大惨事のありさまを、人は天災と呼び近頃では人災とも呼んでいる。

 

モーゼ、釈迦、キリストの時代よりさらに深くさかのぼった古代人の人々は、自然

界の復活劇を人間への戒めの現象と捉えていたという。

その頃、人間と自然界は一体となっていたのではなかろうか。

いま自然界から人間は何を学んでいるであろう。 聖人の教えはいったい何処へいっ

てしまったのだ。月に何千冊も発刊されている週間、月間本の下に埋もれてしまっ

たのではなかろうか?

いまに、その教えも途絶えてしまうであろう。

末法の世の到来である。

 

一寸さきは闇といわれる人の生(道)。

欲望の果てに一寸先どころか腕の筋がのびきってしまうほど手を伸ばし、薄暗い提

灯の灯りで、二寸さきを照らしだそうとしているのが人々の生き方なのだ。

どんな闇のなかにも無音無言で法の塵が降りそそいでいるに違いない。

人は生に厚く降り積もった学びの法を蹴散らしながら、瞬時のいのちに自我の正当

性を自答しているのだ。

ああっ。

なんと人は、悲しくも侘びしいものであろう。

その耳で、その目で、ただ、世を見、聞いているにすぎぬ。

天といわず、地といわず貴い教えが存在しているという。

人はそのなかに身を置いてさえも、今日もこころのなかに法の屍を積むのである。

 

無明はこころに暗雲を発生させる。暗雲は漆黒の闇を創ってゆく。

光明も射さないこころを住処と思い込んでいるのか。

いまこそ、われわれ無常家の人々は、神仏の教えを顧み、何度も自省し自己回帰に

努めなければならない。

釈迦の化身である弥勒菩薩の救済を待てるほど、われわれには有限の時間は授けら

れていないのだ。

常住の世界から抜けだせ。無常の世を知れ。

教えのすべては自然界にあるといっても過言ではない。

人類だけが神から授かっている 「気づき」 という行為を人は忘れている。

そうであるから、こころに拡散している法にも気づかずにいるのだ。

 

光明のやさしさ、あたたかさに感涙せよ。

万物すべてのいのちに深き感動を知れ。

さあ、闇に一灯を投ぜよ。

自我と自己の剥離がはじまる。

新たなる無上のいのちの再生なのだ。

万物みな 歓喜の声をあげるであろう。

そう・・・。

生きる歓びを知る。

 

 

 

 

*法・雷 法は釈迦の教え。雷は自然界をさす。

*法 雷   ここでは自然界の尊い教えという意味。 

*キタローの「キャラバン サライ」のBGMにのり朗読が流れていく。
 CD「生きて」に朗読詩、法雷と神が挿入されている。

 

 

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投稿 2013 12 31

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苦の頭

 

苦が植わるⅠ

苦が植わるⅡ

苦が植わるⅢ

 

 

 

詩集 「人生に舞う」より

 

悉有仏

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申し上げ候

 

苦が植わる

ku ga uwaru

 

 

まだ、二歳にならない頃だったという。

床で泣いているその子は、手足を懸命に動かし母親を求めていたそうだ。

しかし、その左足だけは、二歳のかよわい意志を拒否し、初めての彼の懸命さをも

踏みにじったのである。その子は母親の四番目の子であった。

両親は次男の誕生を厳冬のなかで喜んでいたのである。

子におしめや着替えと手をかけるたびに、母親は普通の親であることの喜びを感じ

ていたのに違いない。冷たい井戸水で洗濯や炊事をすると、すぐに手の感覚がマヒ

する。水が冷たく痛みが両腕に走るのだ。

それでも母親は、冷たい水がぬるむ春をまちこがれていた。

水ぬるむ4月ごろには、この子も2歳3ヶ月。

冷たい水でしびれている手に息をかけながら、小さな夢を描くのであった。

今のところ、上の子三人も順調に育ってくれている。

ああ・・、何と幸せとは平凡なことなのか・・。

と、母親はごく普通の喜びのありがたさを、日々感じ取っていたという。

そんなある日のこと、子がぐずり泣きはじめた。

いつものことだ、なんのめずらしさもない。

母親はおしめが濡れているかとおもい、おしめに手をあててみた。

はたして、子が訴えていたようにおしめは濡れていた。

床で泣いていた赤子は手足を懸命に動かし、母親に訴えていたのである。

泣く子をあやしながら母親は着物を脱がした。

子は泣きやみ母親の顔を見つめながら笑顔をかえしていた。

母親も満面の笑みで子をあやしている。

その光景はごく普通の何も変わりない、当たりまえのものであった。

母親の笑顔が、子の顔から足へと移るまでは・・。

 

おやっ!と、母親は心の中で声がでた。

その子の左足が、ピクリとも動いていないのである。

左足だけが母親を求めていないのだ。

母親はその子の左足をなでながらおしめの始末をした。

「とうさん・・。」

母親はそばで居眠りをしている父親に言った。

「とうさん!」

寝ている父親の腰をゆすりながら、母親はもう一度言った。

父親は、何だ・・っと、いいながら声を返した。

「ともみの・・・足が・・おかしい・・。」

父親は意味も解らず、面倒なそぶりで起きた。

 

・・・・・・ それから。

その子の治療は、自宅で開始されたという。

小さな机の上に乗せられたその子は、看護婦二人に海老のように背中を丸められ

た。そのたびに、子は心臓が外へ飛び出すほどのいきおいで、泣き叫ぶのであっ

た。親は治療のたびに、先生に席をはずすようにといわれていたので外へ出た。

子の泣き声が聞こえ始めたら、母親はしゃがみこみ両手で耳をふさぐのである。

子の泣き声は、すべて母親に助けをもとめるものであった。

母親の顔は、耳をふさぐ力でゆがむほどであったという。

海老状態にされた脊髄の骨と骨のあいだに、太い注射針が刺さっていく。

脊髄にたまった水を抜くという、治療方法である。

二歳の子は気絶寸前であった。

 

 

昭和二十年代。

小児麻痺・ポリオが流行していた。

たくさんの子どもたちが、小児麻痺にかかった時代であった。

治療方法がまだ確立されていなかったのである。

子を思う親の気持ちは、とてもことばでは表すことなどできない。

耳をおさえる力で顔がゆがんでしまうのも、わかる気がするのである。

その子は両親の手厚い看病で後遺症は少なかった。

左足は右足とくらべて細かったが、日常の生活は健常者の子どもと、何ら変わりは

なかった。遊びも運動も何も支障なくやりこなしていた。

だが、母親のその子にたいする心配は、口には出さないがほかの親の何倍もあった

であろう。親がこの子の将来をかんがみれば、いたたまれない気持ちになるのも分

かるのである。

 

 

 

 

 

 

いきて

 

 

 

詩集「人生に舞う」より

 

 

 

 

いま、その子は、六七歳になる。

水呑み百姓で子ども五人を育てきった両親と、その両親を育てた親も含め、六七歳

の男は感謝するのである。

倹約の峰を登りつめ 質素の底を舐めきった 時代の親たちよ! 感謝に余り無し!

感謝すればするほど、感謝すればするほど、感謝すればするほど・・・ ことば知ら

ずを悔やむ・・・。

父さん・・ 母さん・・・

あなた方の作った*五穀の*作柄は良でしたよ。

・・ありがとう・・・ 

ほんとうに、ほんとうに・・・・ ありがとう ・・・。

 

 

 

 

*五穀      五人の子ども
*良の作柄   良い人間に育つ

 

 

 

 Microsoft Word - 夕焼と一緒に。.doc_20130915_120359_001

 

 

悉有仏

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  Microsoft Word - 雷の絵.doc_20130225_204614_001    

悉有仏

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投稿 2013 02 25

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 針の穴1針の穴2針の穴3針の穴4針の穴5針の穴6針の穴7

 

 

詩集 【人生に舞う】 より 

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申し上げ候

 針の穴ほどのも 許しがたく

Hari no Ana Hodonimo Yurusigataku

 

 

「完璧」などという事柄は、わたしよりはるか、ず―っと、ず―っと、ず―っと、

もっともっと、ず―っと、もっとず―っと、ず―と先に鎮座ましましている。

勿論、いまだかってその気配すら感じたことなどない。

わたしのなかでは、「完璧 = 聖人」いえいえ「完璧 = 覚者」です。

覚者は目覚めた人、釈迦ですね。

その「完璧」のこれまた、ず―っと、ず―っと、もっともっと、ず―と手前で、

わたしからはるか、ず―と先のさきに完璧の末裔にあたる「正確」という事柄が鎮

座ましましている。わたしは、このうるさ型さえ納得させることができない。

勿論、納得していただこうと行動を起こしている今日この頃、いえ、ここ数年、い

や―、ここ数十年。

いえいえ、生まれてからこの方全然できたためしがございません。 はい!

 

すべてが完璧であることが幸福であるといえばそうは思えない。

幸不幸の線引きなど完璧では引けない。

貧乏、裕福の線引きもお金では引ききれない。

わたしが子どもの頃、「この貧乏人。」なんてよく言っていたものだ。

いま振り返ってみると全町民が貧乏人ではなかったか。

その頃、時代がそもそも貧乏であったのだ。    その申し子が何故に裕福なことがあ

ろうか。子どもの貧乏という根拠は、食べ物にあったようだ。

着物は兄弟のお下がりがあたりまえである。どこの家庭もそうであった。

兄弟に男の子でも女の子でも一人であった場合は、親の兄弟親戚がお下がりを持っ

てきてくれたものだ。

お金はそのようにはいかない。

お金は欲望をかなえる手形である。

今もこれからも未来永劫変わらない。

一時期、飽食の時代といわれていたが、今は久しい。

その飽食の時代から放食の時代へと変化してからも随分と久しい。

そんな時代を踏み越えて、やって来ました今日、只今の時代。 なのだが、居るも

のです。食べ物も食べずにお金をため、体調が悪くなって渋々病院に行き受診をし

たら、なんとドクターも驚く検査結果がでたのだ。

栄養失調!であった。

確かに個々の問題である。他人があれこれいえない。勿論、お金は無いよりも有っ

たほうが良いのに決っている。それは当たり前である。

無言の魔物であるお金こそ、身の丈にあった金銭感覚を持たねばならない。

カラダを害して貯め込んでも、死ぬときに持っていけない。

必要以上の執着はカラダだけではなく、こころをも害す。

 

近頃、物質的貧乏人は目につかないが、こころの貧乏人はいる。

これこそ時代の申し子に相違ない。

その申し子にどうも欠けているモノがある。

「適」である。人間社会には「適」が必要不可欠ではないのか。

「適」に満たない行動は人の道に外れてしまう。

また、「適」を持たない行為は、人を支えることなどできない。

そう言う人は他人には無関心であるが、他人から与えられる「適」は喜んで受ける

のである。

 

世の中で一番簡単な解決方法はお金である。また、解決方法が一番困難であるのも

お金だ。どうやら、お金は両極端にあるようだ。いや、そうではない。

両極端に存在するのはお金ではなく、その手綱をひくお方の金銭感覚にあるよう

だ。お金は純真無垢なこころを持ち、その存在価値は使う人のこころの投影にあ

るっと言っているではないか。

こういうことわざがある。


【 金持ちの貧乏人、貧乏人の金持ち 】

金持ちが、その身にいくら金を持っていても、心に足りることを知らずにおれば、

貧乏人と同じことであり,一方、たとえ貧乏人でも心に足りることを知って、常に満

足の境地におれば、金持ちと変わるところない。

 

無常の世を常住の世と勘違いするときがある。

幾ら常住の世と思っていても周りの全てのものは変化しつづけている。

カラダも一瞬たりとも今にとどまってはくれない。ドンドンと衰えていく。

黙っていても老いていくものを、何を急いで自分のカラダを酷使せねばならないの

だ。こころもおなじだ。

こころこそ七変化どころか、無辺変化である。

それも、一秒ごとに・・・。

 

生活は、生存して活動すること。

暮らしは、時日(じじつ)をすごすこと。だそうだ。

毎日、楽しい時日をすごしたいものではないか。     

 

人生、未知の道。

どうせ背負うなら荷物にならない、重さを感じさせない荷を背負おう。

何を背負えばよいのか分かりますよね。

長旅には身軽が一番です。  無理していませんか。

気をつけましよう・・・。

 

 

参照 広辞苑

 

 

岸壁の番屋

                                  ハウスⅠ.xls_20130225_210424_001

  エクセル絵画  2001 08 01 作

 

悉有仏

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悉有仏

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投稿 20012 10  09

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 神1神2 

 

詩集 【人生に舞う】 より 

 

悉有仏

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申し上げ候

 神  

GOD

 

 

人間ほど悩み多き生物はこの世にない。

いくら悩んでもどうしょうもない明日にさえ悩み苦しんでいる。

わたしのことばに 、

         「悩み苦しみは よその子ではありません。」

ということばがある。

悩み苦しみを産み育てている親は、自分自身である。

すべてこころが演じている寸劇なのだ。

ところがこの劇、寸劇では済まないから厄介なのである。

そんな摩訶不思議なこころなるものを持っているのは人間だけである。

そのこころが宇宙の大意識と精通しているという。


 

宇宙の大意識とは俗にいう「神」である。

神は、全宇宙を包含している故、人の目では捉えることができないが、

その神意はこの世のものすべてに浸透しているという。

いくら無神論を語っている人であっても、とてつもない窮地に追い込まれたとき、

必ず、「神さま、仏さま、お助けを…。」と、手を合わせる。 これはその人が気づ

かない、その人の心身から表出された神意ではなかろうか。

その神と表裏一体である人間の懺悔の行為こそ、神の出現を願っている現れなのだ

という。悩み苦しみの因果を解くこともなく、ただ行動するその行為が、神を深遠

無限の世界へと遠ざけてしまうのである。

神意が宇宙のはてまで拡散しているということは、われわれのこころのなかにも神

がおられるということになる。

我身を正していかなければならない。


 

人間が抱く悪は人類原初からこれまで、そしてこれからも、人間を支配下に置こう

とするであろう。かといって、この世を完全に支配することなど出来はしないなぜ

なら、こころは善の塊であるからだという。

しかし人間は神からの愛・光明・許しを自我という暗雲でさえぎってしまった。

神からの通信を一方的に遮断してしまったのである。

神の導きを失った人間は生きる使命も目的も忘れ、自分のことだけ考えるように

なってしまった。

人間本来の使命は仏国土の建国であり、そこでともに暮らすことにあるという。

現に争いごとを好んで起こす人など誰一人としていない。

そうでなければ、浄土という世界観を創りだすことなど到底ありえない。

それでも人間は悪を手招きし、こころを悪のベールで覆いつくしてゆくのである。

そのベールを透して見る世界は、人の苦を喜び、人の幸せをねたむ。

自分では気づかない、卑劣な自己本位のこころからの投影なのである。

われわれはいま一度、善悪が何たるものかを神意・仏意のお力をお借りし、考え直

さなければならない。

 

聞くところによると、インド人の道徳精神の教えのなかの一つに

あなたが、この世に存在しているだけで、人に迷惑をかけているのです。 と、

教えているという。日本人はどうかといえば、他の人に迷惑をかけてはいけませ

ん。と教えている。

この違いをどのように思うであろうか。

これは、自律道徳と他律道徳の違いなのである。

いま、日本人に欠落しているのは、自律道徳だといわれている。

外界から強制される他律道徳ではなく、自ら教えを求めて善い方向へと導いてゆ

く、自律道徳が本来のこころの在りかたではなかろうか。

 

池に小石を投げたなら波紋ができる。

波紋は緩やかに広がり、水面に浮く枯れ草、落ち葉などをいつのまにか岸へと運び

去る。こころに善行の一滴を落すと、波紋が広がり塵・芥を取除いてくれるであろ

う。

 

この世に善行の一滴を落とし続けてゆけば、波紋は次ぎつぎと生まれ、

世相のすみずみまで広がってゆくに違いない。

たとえあなたの善の一滴が、奉仕の汗の一滴であろうと、感謝の気持ちから流れお

ちる一滴の涙であろうと、水面に浮かぶ枯葉如きではない。


これは全宇宙(全人類)に言えることなのである。 

 

 

 

「善は悪からも生まれ、悪は善をも育む。

                悪は善からも生まれ、善は悪をも育む。」

 

 

 

 

 

 

 

小宇宙のひとびと

 

 

天地異変は、人類がこの地上に住みつくようになってから、何回となく繰り返され

てきたものである。

天地異変は、自然現象ではない。人類が住みつくようになってから、この地上で、

神が有する創造の権能を、人類が行使し、人類の心と行為がつくり出したもので

あった。人類の地上での目的と使命は、二億年前も現代も変わらない。

それは神の意志である調和という仏国土を建設するために人類は存在し、人々の魂

はそうした建設を通して、永遠の進化をめざすものであったのである。

人間は小宇宙を形成している。小宇宙とは大宇宙の縮図である。

九つの星々(惑星)と三万数千個の小惑星軍をしたがえ、太陽の周囲を循環してい

る。極小の世界(素粒子)も、中心となる核とその周囲に陰外電子がまわってい

る。太陽系という宇宙も、極小の世界も同じように、一つの法則の下に循環し、生

かされ、生きている。

人間の肉体は、そうした極小の光が集まって集団を形成し、体を成している。

これらの集団は、脳、心臓、肝臓、膵臓、胃、腸などを形成し、これはそのまま太

陽であり、九つの星々(水星、金星、地球、火星、木星、土星など)を意味し、さ

らには、大宇宙に展開する多くの太陽系の、それぞれの個性を持った集団軍と同じ

ようにつくられているのである。

人間は肉体のほかに心(意識、あるいは魂)を持っている。その心は、肉体という

衣を通して、物質界、現象界に調和をもたらすことを目的とする反面、大宇宙の心

に同通し、それぞれの役割に応じた使命を担っている、生き通しの意識である。

肉体は仮の宿にすぎない。物質と非物質の世界は、交互に循環することによって、

調和という運動形態を変えた世界に戻らなければならないからである。しかし、人

間の意識、心、魂は、物質、非物質に左右されず、永遠に、その姿を変えることは

ない。

このように人間の意識は、神の意識に通じながら、物質界という現象界と、非物質

界の意識界を循環し、個の意識である魂を持って、生き続けているのである。

神の子としての人間が、現象界においてなにゆえに悪をつくり出したか、不幸をど

うして生み出したか。

それは肉体の自分が自分であると思うようになり、肉体にまつわる諸々の考え方

が、本来、自由自在な心を、肉体の中に閉じこめてしまったためにほかならない。

全能の神が人間の不幸を予測できないはずはないと誰しも考えよう。不幸を事前

に、どうして防げないかと。

では人間の親子がしばしばちがった方向にどうして歩んでしまうのだろう。子供は

成人すると親の自由にならない。子は子としての人格と主体性を持っているからで

ある。神と人間もこれと同じで、主体性をもつ人間を自由にはできない。自由に行

使できる者は、神の子である人間自身であるからである。

神は調和という中道の中で、厳然と生命の火を燃やしている。人間が、その自由に

権能をみだりに使い、中道に反した創造行為をすれば、その分量だけ、反作用を伴

うよう仕組んでいるのである。そうすることによって、神と人間の絆が保たれ、調

和という永遠の目標に向かうように計画されている。

人間の魂が肉体に宿ると五官にふりまわされる。五官とは、眼、耳、鼻、舌、身の

五つである。この五官に、魂・意識が幻惑される。美しいものを見ると欲しいと思

う。気持ちの良い香りには心がひかれる。自分の都合のよい話には、つい乗ってし

まう。舌ざわりのよい物は食べすぎてしまう。苦役より楽な方に身を置きたい。

体五官はこのように、人の心を動かして行く。

五官が働かなければ肉体維持はむずかしくなる。さりとて、五官に心を奪われると

欲望がつのってくる。欲望の源は五官にふりまわされる心の動きにあったわけであ

る。諸々の欲望、争い、不調和、悪の根源は、五官に心を奪われる六根という煩悩

にあった。

さまざまな不幸は、肉体にまつわるこうした心の動き、カルパー(業)の想念行為

によって生み出されていった。

業は執着である。執着は五官から生ずる肉体的想念が、魂に根を張ることによって

作り出されて行く。

地位、名誉、金、情欲、その他さまざまな欲望が、人間の神性仏性を侵して行く。

こうして人は、その意識を、あの世と、現象界であるこの世を循環するたびに、そ

の業を修正して行く者もあるが、大部分の魂は、新たな業をつくって、輪廻してい

る。このために人類は、地上に仏国土を建設する前に、まず己の業を修正しなけれ

ばならなくなった。

同時に、さまざまな執着を生み出して来たがために、神性の自分から次第に遠のい

ていったのである。

しかし、人間の魂から神性仏性を捨て去ることは出来ない。他の動物、植物は、こ

の地上の循環を維持するための媒体物であって、人間は、それらの媒体物を調和し

ていく任を、神から与えられ、まかされているからである。

その証拠に、己の心に偽りの証を立てることはできない。人にウソはいえても、自

分には、ウソはいえない。

文明文化は、人間社会にのみあって、動物、植物の世界にはない。人間はどこまで

いっても人間である。動物、植物もそれぞれの個性にしたがって転生を輪廻し、進

化を続けるものである。しかし彼らが人間になることはできない。

人間も彼らにかわることはない。水が土になることができないのと同じである。

人間が神の子の己を自覚し、業を修正し、本来の神性に戻るためには、神の心に触

れなければならない。神性の我に返るとは、苦界の自分から離れることである。

生老病死のとらわれから脱皮することである。

神の心は中道という調和の大宇宙に流れており、その流れに自分の魂がふれるよう

努力を惜しんではならない。

一日は昼があって夜がある。決して一方に偏することがない。どんなに人類がふえ

ても、空気、水の質量は変わらない。

太陽の熱、光についても、その放射する質量を変えることがない。

人間社会には男と女が生存する。男女の比率は常に一定に保たれている。戦争、災

害、など人々の心が自己保存、我欲に傾かないかぎり、男女の比率は均等に維持さ

れる。人間の肉体も、休息と運動という循環から切り離せない。夜も眠らずに仕事

を続ければ、肉体的支障が現われ、精神の平衡を失ってくる。

すべての生命、物質は、このように、中道から離れては保たれないようにできてい

る。悲しみや苦しみは、こうした中道から離れた想念行為があるからである。

中道の心は、毎日の生活行為に対して、反省し、反省したことを実践することから

得られる。実践には努力が伴う。勇気がいる。

知恵を働かせれば、業の修正は意外に早まるだろう。

反省の尺度は、八つの規範がモトである。

「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正進」「正念」「正定」である。

人の心は、こうした規範を尺度として、毎日の生活行為の中で、正しく修正されて

行く。人間の魂は、生き通しの魂である。肉体は時が経てば脱ぎ捨てなければなら

ない。

中道の心にふれると、こうした摂理が明らかになり、神の意識である永遠の安らぎ

を保つことができよう。

 

 

高橋信次著 人間・釈迦 より

 

 

 

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                                                                      穴 滝                                                                      

 

 

悉有仏

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投稿 2017 04 10

 

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