随筆 限界峠を超えて

カムチャツカの真実 11

蟹工船 協宝丸の世界



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確かな実感

一九七〇年 昭和四五年 夏 八月中旬。

日魯漁業株式会社 蟹工船 協宝丸 函館港帰港。

函館は快晴の下にあった。

函館山は陽をいっぱい受けてまぶしく茂っていた。

わたしの青白かった顔も、太陽を痛いほど浴び赤く焼けた。

甲板で下船を待っている今も、太陽に真夏であることを教えられている。

なかには顔が青白く透き通っている人もいる。

協宝丸は荷下ろしのために岸壁に接岸された。

迎えの人が大勢来ているのが甲板から見える。

出航前へのオットセイの大群と同じ光景だ。でも、みんな笑顔だ。

乗組員も甲板に集まっている。男たちの顔も笑っている。

笑い声が重なり合って聞こえてくる。

みんな乗船前よりも荷物が多い。ベコである。ものすごい数だ。

さあ! わたしもベコをかついで… オカにあがろう。

蔵田氏と一緒に、表側のウインチの網台に乗る。少ない荷物とベコも一緒だ。

艫側のウインチから大量のベコ缶が、何缶も下ろされている。数えられない。

こんなにどこに隠していたのだろうと不思議に思った。

よくよく見たら。

艫のウインチで降ろされていたそのベコは、川崎船貴重人種が作ったあの

タラバの子であった。蔵田氏の話しによると、この岸壁で売買されるという。

子買い(タラバの子の買い付け)のこの買人は、他の買人とまったく違う買人だという。

かなりの資金がなければ、買い付けなどできないともいっていた。

一缶、二万円以上で取引されるという。五船団の子買いを買い付けるというと…、金は…。

でも、それはそうだ。

命と引き換えの代物である。ある意味、値が付くだけ安価であるともいえる。

岸壁で迎えの人に交じって、ベコを買い付けに来ている別の買人たちがいる。

右手に札束をにぎりしめ、腹巻から札が顔を出しているのが見える。

先述したが、ここでベコ一缶、一万円近くで売買される。

子買い買人からみると、この買人たちは、騒々しさだけが印象に残った。

そんな光景を、網台の上から見ていたら岸壁に降りた。

四ヶ月ぶりに、地べたに足を下ろした瞬間。

動かない地べたに逆らって体は揺れようとしていた。

自分で自分を揺らそうとしているのだ。まもなくその違和感も消えてしまう。

たった今、降りたばかりの蟹工船なのに、もう絶対乗らないとこころで誓っていた。

心から強く! さらに強く! もっと強く! 思うのであった。

誰が何と言おうと、何が何でも、絶対、乗らない! と。

そんなわたしの感情を横目で見ながら、蔵田氏が肩をたたいた。

振り向いたら、蔵田氏のとなりに奥さんがいた。

「大変だったっしょう…」

奥さんの問いかけに無言で答えた。

少し蔵田氏と話しを交わし岸壁で別れた。

それからわたしは、岸壁の隅に腰を下ろし、協宝丸を見上げた。

岸壁のにぎやかな雑多の中で、何思うとなくただ黙って見上げていた。

そして、こころで呟くのである。

よく…、倒れなかったな…、と…。

協宝丸は、カニ以外のものをここで荷下ろしをする。

特に漁網関係は全部下ろされる。

残るのは社員と船舶関係者と丹前のアブサンとマツだけである。

そして、製品庫の缶詰と冷凍庫に備蓄されているボイルタラバだ。

函館の荷下ろしが完了したなら、母船 協宝丸は横浜港へと出航する。

横浜港で一週間停泊し、すべてのカニが荷下ろしされる。と、マツが言っていた。

それからは、マツとアブサンの本州旅行のはじまりである。

帰港3


よく…倒れなかったな…

と つくづくおもった

さあ、今夜のホテルを探そう。

だが、どこのホテルも満室状態であった。

わたしは暑い日差しの下、ベコをかついで今夜の宿探しをした。

午前中まで、蟹工船、真っただなかであった。

甲板の下の日も差さない、男だけの部屋にいたのだ。

今は函館の夏の日差しを浴びながら、華やかな街並みを歩いているのである。

街路樹の葉が風に吹かれて、サラサラと夏を歌っていた。

たった一晩違いで、これほど世界が変わるのかと不思議な感覚になっていた。

女性を見るのも四ヵ月ぶりである。自然と目が行く。

下を向きながら、チラチラ見ていたのを今でも忘れられない。

そんな思いをしながら、函館山の麓に、白色の清潔そうなペンションを

みつけチエックインした。

ペンションのご主人に、冷凍のベコを預かってもらった。

奥さんが部屋まで案内してくれ、室内の説明をしてくれた。

わたしは、奥さんの後について部屋を見てまわった。

ここがお風呂になっております、という奥さんのそのことばに顔がほころんだ。

きれいに清掃された風呂を見ながら、真水の風呂よ、いま行くから待っていろよ!

と心でつぶやいた。

奥さんが、ごゆっくりといいながら、さがっていった。

さてと…。

わたしの切り上げ儀式を執り行おう。

風呂だ! 真水の風呂で溺れたい。

湯船に、お湯をジャン、ジャン出しながらはいった。

時々、蛇口から出るお湯をなめってみる。

しょっぱくない。真水だ! 間違いなく、真水のお湯だ!

また頭から、何度もお湯をかぶり、大きな声で泣き笑いをした。嬉しい…。

今日は、過酷重重重労働と垂直直下深深深睡魔から解放された記念日なのだ。

この記念日をわたしが自分で祝わずに、いったい誰がわたしを祝ってくれるというのだ。

うれし泣きをしながら、よくぞ耐えたなぁ、と自分をほめた。

次は体だ。

ゆっくり、あったまったせいか、かゆくて、かゆくて仕方がない。

カムチャツカの垢をおとそう。

何度こすっても、こすっても垢がでる。

まるで、粘土細工の下着を一枚脱ぐかのように垢がでた。

洗い場の床までが垢で汚れた。洗い場を汗いっぱい流しながらキレイにした。

そしてわたしは、湯船にお湯を出しながら静かにつかっていた。

儀式をすませたわたしは、冷蔵庫からジュースを取り出しひとり祝杯をあげた。

やがて、ガサガサと藁の音がしないベッドで、陽射しをいっぱい浴びながら昼寝にはいった。

春陽3

函館港に下船したときに、蟹工船は誰が何と言おうと、二度と乗らないと固く決めた。

だが、それを打ち消す何かとてつもない魅力が、カムチャツカにはあったのであろう。

その証拠にわたしは一年後、函館の岸壁に立っていた。

もしかしたら、まがりなりにも地獄を制覇できた充実感が、カムチャツカに

憧れを抱かせたのだろうか。

しかし、船の完全休暇は、出航日と帰港するその日の二日間だけだ。

労働日数と労働時間を考えただけで、今でも立ちくらみがしそうである。

わたしは一時間も、勿論一日も休まず、二つの地獄と二航海戦い抜いた。

でも、これが魅力といえるであろうか。

また巡り会いたいほどの憧れとなるのであろうか。

そんなことは断じてない。

やはり、そこに人あり、温かい気持ちあり、心遣いありなのである。

その気遣いは、一年経っても忘れることはなかった。

母船に乗船するときに、甲板にわれわれを運んでくれた、

あの大きな網台を覚えているであろうか。

あの網のように、絡み合った人の絆が、わたしを地獄から救ってくれていたのだ。

これは目には見えないけれど、肌にも感じないけれども確かな実感としてある。

仕事の辛さは、厳しさと競り合いながらともにあった。

心身に間借りしている、二人の大王様は、毎日毎夜こころの中で私にこうつぶやいていた。

「すべての開放日は、切り上げだ。楽になりたかったら、休め!」

そうなのだ、切り上げが来なければ、彼らはわたしの心身から出ていかないのである。

彼らとはそれまでの付き合いなのだ。仲良くしよう…。

と、わたしはわたしに何度も言い聞かせた。

勿論、蟹工船は辛いことばかりではなかった。

では何か楽しいことがあったのか。といえば具体的にあげられない。

しかし、勤め上げられたということはそういうことなのだろう。

ことわざに、「郷に入っては郷に従え」ということばがある。

蟹工船に乗ったら、西カムチャツカに行ったら、そこに従えであろう。

物事の多様さ面白みの濃度を、オカと比べても船は確かに大下落である。

外界と遮断されている世界である。致し方がないのだ。

だが、――従え、から察するに蟹工船でも、ささいな楽しみがそこかしこに点在していた。

その中において、わたしはとても人に恵まれていたと思う。これも、蔵田氏のお蔭であった。

人を通じていろいろなことが経験できたのである。

カムチャツカ・ジェントルマンの部屋で作られていた、醤油味カムチャツカ鍋は

格別であった。

旨かったのはタラバではなく、鱈でもなく、あの野菜だ。

本当に旨かった。鱈釣りも豪快であった。

そして冷凍庫でみんなで震えながら食べた、凍ったショートケーキも格物の味であった。

冷凍庫の電球の熱で、凍ったタラバを焼きカニとして食べた味も忘れられない。

津軽衆からもらった、ごぼうと人参の味噌漬けも忘れられない味だ。

毎日夜食で、みんなで食べたインスタントラーメンと大きなゴマおにぎりの旨かったこと。

万箱祝の日本酒の一升瓶と交換したケーキは本当に旨かった。

どれもこれも食べ物は旨かった。

あの絶対噛み切れない、筋肉の肉でさえ私好みで旨かった。

過酷な労働が、旨いと思わせてくれたのであろうか、それとも、

不自由の解放場所が食であったのか。勿論、すべてが船国一国の話しである。

これがオカであれば、もっと旨いものがあるだろう。

だが、カムチャツカ鍋だけは船国一国の絶品料理だ。

こればっかりは、西カムチャツカ 蟹工船に乗船しなければ出会うことがない。

たとえ乗船したとしても、カムチャツカ・ジェントルマンと出会わなければ、

そこにたどり着くことができない。

カムチャツカ・ジェントルマンと、社員との信頼関係があればこそ、

生野菜が手に入ったのである。

何もカムチャツカ鍋だけ、ほめたたえているのではない。

人を返して物事が起こる。

その物事こそ「郷に入っては郷に従え」であった。

カムチャツカだからこそ、蟹工船でなければ、成り立たない教えであった。

オカとは質の違う、高品質で究極な、――従えなのである。

西カムチャツカ 蟹工船を二航海して残ったものは、というと何もない。

記念の写真もないのである。

お土産のベコも隣近所や知人に配りすぐになくなった。

やはり形あるものは無くなるのが早い。

ということはわたしが蟹工船に乗船していた証拠が、何一つないということになる。

みなさんに、わたしのことばを信じていただくしかありません。

それは無いでしょう、といわれても致し方ない。

でも、乗船していたことは、確かな事実なのだから乗船記録が残っているはずだ。

その記録をいただければ、立派な乗船証明書になるではないか、

というわけで、マルハニチロ本社 人事課に電話をして事情をお話しした。

かなり古い話なので、調べるのに時間がかかりますということなのだ。

御面倒お掛けします、と言って受話器を置いた。

わたしにとって、良い返事がもたらされることを、ただただ、祈っているだけ。

約半世紀前の記録の谷底へ入り込み、たった一人の存在を探し出さなければならない。

たとえ、見つからなかったとしても、有り難いことに違いない。

そうこうしているうちに、二〇一五年 五月二八日に連絡がきた。

古いので記録が存在しない、ということであった。

ウ~ン。残念! 仕方ない。

でも、皆さん。

私のこの熱意は、私の心の真から表出された、「無垢の熱意」純粋の熱意です。

私も年金を受給できる年齢になって、年金一覧表なるものが届いた。

その中に、船員年金保険の記載があった。

加入制度   お勤め先の名称    資格取得年月日      資格喪失年月日

船保    株式会社 ニチロ   昭和 45.4.7    昭和 45.8.13

船保    株式会社 ニチロ   昭和 46.4.23   昭和 46.8.30

船名は書かれていないが、会社名と乗船した年月日は二航海とも同じである。

漁場

西カムチャツカ航路

思い起こせばたくさんの人との出会いがあった。

いまこうやっていられるのも、その方々のお蔭であろう。

とりわけ、親の恩は忘れ難い。

身を粉にして、働き育ててくれた親に幾ら感謝しても余り無しである。

今となっては、手を合わせるのみである。

ひと花 新

はるか かすみのかなたにて

母 曰く 人の世に         

活かしていただくものならば     

人の誠意は受けなされという     

                  

父 曰く 人の世に         

生きて活かせるものならば      

おのれの善意は何より大事という         

                     

教えとは              

何と月日のながきもの        

死して仏さまであるよりも     

生きて仏さまにならんといわんや  

やはり 教えの尊さは

受ける誠意と与えし善意とを

解いて我が身の明日を知れという

 

父 母も今は亡く

はるかかすみのかなたにて

手をふる母と うなずく父は

今を生きよと物語る

悉有仏

読んでいただきありがとう。

記憶をたどり書き続ける ノンフィクション

西カムチャツカ 蟹工船 協 宝 丸

                     Microsoft Word - と 印          悉有仏

あとがき

わたしは五七歳と六三歳に脳梗塞を発症した。

今度、発症すると三回目だ。

その時、いったいどのような状態になっているのか見当もつかない。

この脳梗塞に、ヘタな物書きを奪い取られるその前に、

半世紀前の記憶へ踏み入ることにした。

わたしの意識が、記憶海域でさまよう蟹工船の記憶の断片を探し集め、

何とか文字列を組むことができた。

どうやら、三回目の発症前にかき集めが終了したようである。

だがまだ底さらいをしてはいない。

そのうちに、意識の表面にプカっと浮かんでくるだろう。それが数秒先にくるかもしれない。

それはすなわち、脳梗塞三回目の発症とおなじである。神のみぞ知るだ。

では、一番身近な神のいうことを、おとなしく聞くことにしよう。

我が家の神。カミさんのいうことを。

といわけで、わたしはここ数年、模範亭主なのである。

態度は模範なのだが、体はそうはいかない。

わたしのカラダには、脳梗塞のほかにあと四つ病気が定住している。

これらの病の年数と悪化防止運動年数から鑑みても、この住人は間借人ではなさそうだ。

家賃不払い、生活費大家持ち出しの定住者である。

この定住者からの実入りは何もない。

生活費持ち出しとは、薬代全額を大家のわたしが支払うということだ。

この金喰い虫の定住者と、家のカミと同等の付き合いをしていかなければならない。

でなければ、命さえとられかねないのである

一病息災というが、多病息災とは聞いたことがない。

一度目の脳梗塞の時にDrがこういった。

「あなたねえ、このままでは、七〇歳まで、生きられませんよ。」

脳神経外科の高名なDrに、面と向かって死を宣告されたのである。

当然、その日から、わたしの人生観も、食生活も、大きく舵を切ることになった。

そうして、今に至っている。

わたしが死の宣告を受けた年齢まで、あと数年…である。

もし、こんなわたしにでも会ってみたいな~ぁなんて、

思っている人がいたなら、お早めに…。(笑)

                                 悉有仏





小林多喜二 「蟹工船」


  

あらすじ

蟹工船とは、戦前にオホーツク海カムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業

使用される、漁獲物の加工設備を備えた大型船である。搭載した小型船でたらば蟹

を漁獲し、ただちに母船で蟹を缶詰に加工する。その母船の一隻である「博光丸」

が本作の舞台である。

 

蟹工船は「工船」であって「航船」ではない。だから航海法は適用されず、危険な

老朽船が改造して投入された。また工場でもないので、労働法規も適用されなかっ

た 。 そのため蟹工船は法規の真空部分であり、海上の閉鎖空間である船内では、東

北一円の貧困層から募集した出稼ぎ労働者に対する資本側の非人道的酷使がまかり

通っていた。また北洋漁業振興の国策から、政府も資本側と結託して事態を黙認す

る姿勢であった。

 

情け知らずの監督である浅川は労働者たちを人間扱いせず、彼らは劣悪で過酷な労

働環境の中、暴力・虐待・過労や病気で次々と倒れてゆく。転覆した蟹工船がロシ

ア人が救出したことがきっかけで異国の人も同じ人間と感じ、中国人の通訳も通

じ、プロレタリアートこそ最も尊い存在と知らされるが、船長がそれを「赤化」と

みなす。学生の一人は現場の環境に比べれば、ドストエフスキーの「死の家の記

」の流刑場はましなほうという。当初は無自覚だった労働者たちはやがて権利意

識に覚醒し、指導者のもとストライキ闘争に踏み切る。会社側は海軍に無線で鎮圧

を要請し、接舷してきた駆逐艦から乗り込んできた水兵にスト指導者たちは逮捕さ

れ、最初のストライキは失敗に終わった。労働者たちは作戦を練り直し、再度のス

トライキに踏み切る。

  

 

実際の蟹工船

夏場の漁期になると貨物船を改造した蟹工船と漁を行う川崎船が北方海域へ出て

三ヶ月から半年程度の期間活動していた。 蟹工船は漁をしていない期間は通常の貨

物船として運行しており、専用の船があったわけではない。 蟹の缶詰は欧米への輸

出商品として価値が高かったため、大正時代から昭和40年代まで多くの蟹工船が運

航されていた。

 

1926年大正15年)9月8日付け『函館新聞』の記事には「漁夫に給料を支払う際、

最高二円八〇銭、最低一六銭という、ほとんど常軌を逸した支払いをし、抗議する

ものには大声で威嚇した」との記述がある。逆に、十分な賃金を受け取ったという

証言もある。「脱獄王 白鳥由栄の証言」(斎藤充功)において、白鳥由栄1907年

生まれ)は収監以前に働いていた蟹工船について「きつい仕事だったが、給金は三

月(みつき)の一航海で、ゴールデンバット一箱が七銭の時代に三五〇円からも

らって、そりゃぁ、お大尽様だった」と述べている。大正15年に15歳で蟹工船に雑

夫として乗った高谷幸一の回想録では陸で働く10倍にもなると述べているが、単調

な1日20時間労働で眠くなるとビンタが飛ぶ過酷な環境で大半は1年で辞めるとこ

ろ、高谷幸一は金のために5年も働いたと証言している。

 

小説発表後も、1930年昭和5年)にエトロフ丸で、虐待によって死者を出した事

件もおきている。

 

蟹工船形式の操業は、戦後も続き、1970年代200カイリ経済水域の設定による

洋漁業廃止まで行われていた。

 

 

博光丸

 

 


 

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