釈尊 「人の道」   

弐の巻

釈尊の「人の道」を読んでみよう。

我々はどのようなに生きていけばよいのであろうか?

知らないよりも、知ってたほうが良い

知ったなら、実行するが良い

けれども・・・

悉有仏

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学生カッパの質問

「極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死

とに圧倒されている人々のために、州(しま)(避難所、よりどころ)を説いてく

ださい。あなたは、この苦しみがまたと起こらないような州(避難所)をわたくし

に示してください。親しき方よ。」

師(ブッタ)は答えた、

「カッパよ。極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある

人々、老衰と死とに圧倒されている人々のための州(避難所)を、わたくしは、

そなたに説くであろう。いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、

――これが州(避難所)にほかならない。それをニルヴアーナと呼ぶ。それは

老衰と死との消滅ある。」

「サッタニパータ」一〇九二―一〇九四

修行学生ピンギヤの質問

「わたくしは年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。眼もはっきりしませ

んし、耳もよく聞こえません。わたくしが迷ったまま途中で死ぬことのないように

してください。――どうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることができる

か、そのことわりを説いてください。それをわたくしは知りたいのです。

「スッタニパータ」一一二〇

師(ブッタ)答えた、

「ピンギヤよ。物質的な形態があるが故に、人々が害(そこな)われるのを見る

し、物質的な形態があるが故に、怠ける人々は病などに悩まされる。ピンギヤよ、

それ故に、そなたは怠けることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態にもど

らないようにせよ。」

「スッタニパータ」一一二一

師は答えた、

「ピンギヤよ。ひとびとは妄執に陥(おちい)って苦悩を生じ、老いに襲われてい

のを、そなたは見ているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠けること

なくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

「スッタニパータ」一一二三

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜ

よ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる

人を、死の王は見ることがない。」

「スッタニパータ」一一一九

無常の道理

「尊いお方さま。わたしの祖母は、老いて、高齢で、老いぼれて、長い人生の旅路

経て、人生の終りに達し、年が百二十歳で亡くなりました。わたしにとっては、

祖母は、愛しく、慕わしい人でした。もしもわたしが宝のような象を与えることに

よって、わが祖母が死なぬようにすることができるのであるならば、わたしは、わ

祖母が死なないように、宝のような象を与えることにしましよう。……」

師(ブッタ)は答えた。

「大王さま。すべての生きとし生ける者どもは、死ぬきまりのもので、死をもって

終り、死を越えることはできないのです」

「サンユッタ・ニカーヤ」

「ああ短いかな、人の命よ。百歳に達せずして死す。たといこれよりも長く生きる

としても、また老衰のために死ぬ」

「スッタニパータ」八百四

「ヴアッカリよ、もうそんなことはいいなさるな。やがて腐敗して朽ちてしまうわ

くしの肉身を見たとて、なんになりましょう。ものごとの理法(ダルマ)を見る

人は、わたくしを見るのです。またわたくしを見る人は、ものごとの理法を見るの

です。……ヴアッカリよ、おまえはどう考えるか。――物質的なかたちは常住(永

遠不変)であるか。あるいは無常であるか。」

「尊者よ、無常です。」

「感受作用・表象作用・形成作用・識別作用は常住であるか。あるいは無常で

あるか。」

「尊いお方よ。それらはみな無常です。」

「こういうわけだから、このようにすべてのものは無常であると観じたならば、

もはやこの世に生を受けることはない、と知るのである。」

「サンユッタ・ニカーヤ」

世の中はうたかたのごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。

世の中をこのように観じる人は、死王もかれを見ることができない。

                       「ダンマパダ」一七〇」

非我の内容

色(物質的なかたち)は無常である。無常であるものは苦しみである。これは

われではない。これはわがアートマンではない。正しい智慧をもってこの道理

を如実に観ずべし。

「サンッユタ・ニカーヤ」

バラモンよ。わたくしには、十四頭の牝牛を失って今日まで六日になるけれども

見いだされないということはない。だからわたくしは幸せである……。

バラモンよ。わたくしには、朝早くから借金取りが来て、「返せ」「返せ」と責め

たてるということはない。だから、わたくしは幸せである。

「サンッユタ・ニカーヤ」

なにものかをわがものであると執着して、動揺している人々を見よ。かれらのあり

さまはひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを

見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。――もろもろの生存に

対して執着することなし。

「スッタニパータ」七七七

「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが

なにも存在しない人、――かれはこのようなわがものという観念が在しないから、

「われになし」といって悲しむことがない。

 「スッタニパータ」九五一」

身体への執着

尊師がいった、

「刀が体に刺さっている場合に刀を抜き去るように、ターバンを巻いた頭(髪)

に火がつている場合に、急いで火を消そうと努めるように、自身ありという見解

を見捨てるために、修行僧は気をつけながら遍歴すべきである。

「サンユッタ・ニカーヤ」

洞窟(身体)のうちにとどまり、執着し、多くの煩悩に覆われ、迷妄のうちに

沈没している人、――このような人は、じつに、遠ざかり離れること(厭離)

から遠く隔たっている。じつに世の中にありながら欲望を捨て去ることは、

容易ではないからである。

「スッタニパータ」七七二

五つの構成要素

五種の構成要素(五蘊)を、アートマンと異なった他のものであると見て、

アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。――毛の

尖端を矢で射るように。

「テーラガータ」一一六〇

悪魔が語りかけた

「この生ける者は、だれが作ったのか? 生ける者の作手はどこにいるのか? 

生ける者はどこから生じるのか? 生ける者はどこに滅びるのか?」

ヴアジラー尼は答えた

「そなたはなにゆえに生ける者というものを認めるのか?悪魔よ。汝は悪しき

見解をいだいている。この生ける者はただもろもろの形成されたものの集合で

ある。ここに生ける者は認められえない。たとえばじつにもろもろの部分が集

まったならば車という名称が起こるように、それと同じく、五つの構成要素(

五蘊)が存在するのに対して、生ける者という仮りの想いが起こるのである。」

「サンユッタ・ニカーヤ」

真の自己とは

あるとき尊師は、サーヴアッテイー市の祗園精舎に住しておられた。そのとき

コーサラ国王パセーナデイは、王妃マッリカー夫人とともに、みごとな宮殿の

上にいた。

そこでコーサラ国王パセーナデイは、王妃マッリカー妃に言った、――「大王

さま。わたくしには、自分よりももっとも愛しい人はおりません。あなたに

とっても、ご自分よりももっと愛しい人があられますか?」

「マッリカーよ。わたしにとっても、自分よりもさらに愛しい他の人は存在

しない。」

「ウダーナ」

「心のなかでどの方向に捜し求めてみても、自分よりさらに愛しいものをどこ

にも見いださなかった。そのように、他に人々にとっても、それぞれの自己が

愛しいのである。それゆえに、自己を愛する人は、他人を害してはならない」と。

「ウダーナ」

愚かで智慧のない人は自己に対し仇敵のごとくにふるまう。

「サンユッタ・ニカーヤ」

たとい他人にとっていかに大事であろうとも、自分でない他人の目的のため

に自分のつとめを捨て去ってはならない。

「ダンマパダ」一六六

善からぬこと、己のためにならぬことは、なしやすい。

ためになること、善いことは、じつにきわめてなしがたい。

「ダンマパダ」一六三

自己を護る人は他の自己をも護る。それゆえに自己を護れかし。しからば、

かれはつねに損ぜられることなく、賢者である。

「アンダッタラ・ニカーヤ」

自己こそ自己の主

自己を制して悪をなさず、若いときでも、中年でも、聖者は自己を制して

いる。かれは他人に悩まされることなく、また何ぴとをも悩まさない。もろ

もろの賢者は、かれを聖者であると知る。

「スッタニパータ」二一六

修行僧よ、この舟から水を汲み出せ。汝が水を汲み出したならば、舟は軽や

かにやすやすと進むであろう。貪りと怒りとを断ったならば、汝は安らぎ

(ニルヴアーナ)におもむくであろう。

「ダンマパダ」二一六

戦場において百万人に勝つよりも、ただ一つに自己に克つ者こそ、じつに

最上の勝利者である。

「ダンマパダ」一〇三

自己に打ち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに

行いをつつしみ、自己をととのえている人、――このような人の克ち得た

勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴア(天使の伎(ぎ)楽(らく)

神(じん))も、悪魔も、梵天もなすことができない。

「ダンマパダ」一〇四

自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。自己をよく

ととのえたならば、得がたき主を得る。

「ダンマパダ」一六〇

慈悲の意味

大慈とは一切の衆生に楽を与え、大悲とは一切の衆生のために苦を抜く。

大慈は喜楽の因縁を衆生に与え、大悲は離苦の因縁を衆生に与う。「大智度論」

慈とは同じく喜楽の因果を与うるがゆえなり。悲とは同じく憂苦の因果を抜くがゆ

えなり。

「十地経論」

究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりで

ある。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思いがあることのない

者であらねばならぬ。足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活

もまた簡素であり、もろもろの感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、もろもろ

の人の家で貪ることがない。他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決して

してはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽で

あれ。

「スッタニパータ」一四三―一四五

いかなる生物生類であっても、怯えているものでもなく、ことごとく、長いもので

も、大きいものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大

なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近く

に住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するもので

も、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

「スッタニパータ」一四六・一四七

なんぴとも他人を欺(あざむ)いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじて

もならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えること

望んではならない。あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、その

ように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの心を起こすべ

し。また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。

上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。立ちつつ

も、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいるかぎりは、この慈しみ

の心かいをしっかりと保て。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。もろも

ろの(よこしま)な見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはたらきをそなえて、も

ろもろの欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであ

ろう。

「スッタニパータ」一四八―一五二

慈悲の実践

「おまえたちよ、子供たちよ。きみたちは苦しみを怖れるか。苦しみはきみたちに

とって不快(好ましからぬもの)であるか」

子供たちは答えた

「そうです。尊師さま。ぼくたちは苦しみを恐れます。苦しみはぼくたちにとって

不快です」

ブッタは偈をもって答えた

「もしも、苦しみがそなたたちにとって不快なものであるならば、おおっぴらで

も、こっそりでも、悪いことをしてはならない。もしもそなたたちが悪い行いを

しようとし、またするならば、たとい逃避しても、そなたたちが苦しみから離脱

することはあり得ない」

「ウダーナ」

殺そうと争闘する人々見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたので

ある。わたくしがぞうとしてそれを厭(いと)い離れたその衝撃を述べよう。水の少

ないところにいる魚のように、人々が慄(ふる)えているのを見て、また人々が相互

に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖がおこった。

「スッタニパータ」九三五―九三六

すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。弓が身に引きくらべて、

殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

すべての者は暴力におびえる。すべての生きものにとって生命は愛しい。己が身に

引きくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

「ダンマパダ」一二九―一三〇

「かれらもわたしと同様であり、わたしもかれらと同様である」と思って、わが身

に引きくらべて、生きものを殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬ。

「スッタニパータ」七〇五

慈しみの宝石

そこへ尊師がこられ、わたしの顔を撫でて、わたしに手をとって、僧園のなかにつ

れて行かれた。慈しみの念をもって師はわたしに足拭きの布を与えられた。

――「この浄らかなものをひたすらに専念し、気をつけていなさい」といって。

わたしは師のことばをきいて、教えを楽しみながら、最上の道理に達するために、

精神統一を実践した。

「テーラガーター」五五九―五六一

万人の仲間

あたかも母が愛しき独り子に対し善き夫人であるように、いたるところで一切の生

きとし生けるものに対して、善き人であれかし。

「テーラガーター」三三

この世において、人間でありながら、他の生きものを害する人は、この世とかの世

の幸せを二つながら失う。慈しみの心をもって、あらゆる生きものをいたわる人、

――そのような人は、多くの福徳を生じる。

「テーラガーター」二三七―二三八

われは万人の友である。一切の生きとし生けるものの同情者である。慈しみの心を

修めて、つねに無傷害(アヒンサー)を楽しむ。

「テーラガーター」六四八

われ汝等を敬う

我深く汝(なん)等(だち)を敬う敢(あ)えて軽しめず慢(あなど)らず所以(ゆえ)は何(い

か)ん。汝等は皆菩薩の道を行いて当(まさ)に仏と作(な)ることを得べければなり

「妙法法華経」常軽菩薩品 第二〇

プンナ「世尊よ、スナーパランタという地方があります。そこに定住して伝道しょ

うと思います。」

ブッタ「プンナよ、スナーパランタの人は凶悪である。しかも粗暴である。

人々が、お前を罵(ののし)り嘲(あざ)ったならば、お前はどのように対処

するのか」

プンナ「そのときはこのように思いましょう。『スナーパランタの人は皆んなよき

人々である。なぜなら私を掌をもって打つことがないから』と」

ブッタ「されどプンナよ、掌をもって打ったらどうするか」

プンナ「私はこのように思いましょう。『スナーパランタの人々はみんな善き人で

ある。なぜなら土塊をもって打つことはないから』と」

ブッタ「土塊をもって打ったらどうするか」

プンナ「世尊よ、スナーパランタの人は、杖をもって打つことはないと思いまし

ょう」

ブッタ「杖をもって打ったら」どうするか」

プンナ「スナーパランタの人は刀剣をもって打つことはなかったと」

ブッタ「刀剣をもって打ったらそうするか」

プンナ「もしそうなったらこのように思いましょう。『スナーパランタの人は

みんな善き人たちである。鋭い刀をもって命までもとろうとはしないから』と」

ブッタ「命までも奪うようなことがあったらどうするか」

プンナ「世尊よ、そうなりましたら私はこのように思いましょう、『世尊の弟子の

中には苦悩のために刃物をとって死を求めるものもおりもうす。私は自分で刃物を

とらないで、死ぬことができる』と思いましょう」

ブッタ「善いかな、善いかな、プンナよ、お前は自制力と安穏な心をもっている。

お前のもっとも望むことをやりなさい」

「南伝大蔵経「相応部経典」三五―八八 取意

じつにこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの

息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。

「ダンマパダ」五

怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むことなく、われらは大いに楽しく生

きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むことなく、われらは暮らして

いこう。

「ダンマパダ」一九七

修行のすべて

すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執着を超越して、とらわれることのな

い人、――かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、

後の身体に達した人、――かれらをわたくしはバラモンと呼ぶ。

熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、――これによってバラモンとな

る。これが最上のバラマンの境地である。

「スッタニパータ」六二二・六二四・六五五

サビヤよ、みずから道を修めて完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを

捨て、清らかな行いに安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人、――かれが

修行僧である。

「スッタニパータ」五一四

ナンダよ。世の中で、真理に達した人たちは、哲学的見解によっても、伝承の学問

によっても、知識によっても聖者だとはいわない。煩悩の魔群を突破して、苦悩な

く望むことなく行う人々、――かれらこそ聖者である。とわたしはいう。

「スッタニパータ」一〇七八

「尊師よ! 善き友のあること、善き仲間のいること、善き人々に囲まれているこ

とは、清浄行の半ばに近いことではありませんか」と。

アーナンダよ。そうではない。そうではない。善き友をもつこと、善き仲間のいる

こと、善き人々に取り巻かれていることは、清浄行の全体である。善き友である修

行僧については、次のことを期待することができる。善き友、善き仲間、善き人々

に取り巻かれている修行僧ならば、八つの正しい道を修めることになるであろう。

そうして八つの正しい道を盛んならしめるであろう。

「サンユッタ・ニカーヤ」

アーナンダよ。じつに、わたくしを善き友とすることによって、迷いの世界のうち

に生まれるという性質をもっている人々は、生まれることから解脱するのである。

老いるという性質をもっている人々は、老いから解脱するのである。病という性

質をもっている人々は、病から解脱するのである。死という性質をもっている人々

は、死から解脱するのである。悲しみ、嘆き、苦しみ、悩み、悶えという性質を

もっている人々は、悲しみ、嘆き、苦しみ、悩み、悶えから解脱するのである。

善き友をもち、善き仲間をもち、善き人々に取り巻かれていることが清浄行のすべ

てであるということは、このような仕方で理解されねばならない。

「サンヤッタ・ニカーヤ」

最上のバラモン

わたしはいやしい家に生まれ、貧しく食物が乏しかった。わたしは稼業がいやしく

てしぼんだ花を掃除するものでした。人々には忌み嫌われ、軽蔑され罵(ののし)ら

れました。わたしは心を低くして多くの人々を敬礼しました。そのとき、全きさと

りを開いた人(ブッタ)、大いなる健き人が、修行僧の群れにとりかこまれて、マ

ガダ国の首都に入ってこられるのを、わたしは見ました。わたしは、天秤棒をなげ

すてて、師に敬礼するために、近づきました。わたしを憐れむが故に、最上に人は

そこに立ち止まっておられた。そのとき、わたしは師の御足に敬礼して、一方の側

に立って、あらゆる生きもののうちの最上者に「出家させてください」と請いまし

た。そのとき、慈悲ふかき師、全世界をいつくしむ人は、

「来なさい、修行者よ」とわたしに告げられた。

これがわたしの受戒でありました。

「テーラガーター」六二〇―六三一

スニータ長老

戒律の意味

この世では、戒めをこよなく学ぶべきである。いましめを実行するならば、あらゆ

る幸運をもたらすからである。

戒めをまもる人は、自ら制するために、多くの友を得る。しかるに戒めを犯す人

は、悪事を行って多くの友から疎(うと)んぜられる。戒めは、もろもろの善いこ

とがらの始まりであり、根底であり、根源であり、あらゆる徳のうちの主要なも

のである。それゆえに、戒めを浄くせよ。

戒めこそ、この世で最上のものである。また智慧ある人は最高である。――人間

神々とのあいだでは、戒めと智慧とを具えているならば、勝利を得るのである

から。

「テーラガーター」六〇八・六一〇・六一二・六一九

この世で一切の罪悪を離れ、地獄の責苦を超えてつとむ励む者、精励(せいれい)

する賢者、――そのような人がつとめ励む者と呼ばれるものである。

「スッタニパータ」五三一

心は奮い立ち、思いつつましく、行いは清く、気をつけて行動し、みずから制し、

法に従って生き、つとめ励む人は、名声が高まる。

「ダンマパダ」二四

思慮(しりょ)ある人は、奮い立ち、つとめ励み、自制・克己によって、激流もおし

流すことのできない島をつくれ。知慧乏しき愚かな人々は放逸(ほういつ)にふける。

しかし心ある人は、最上の財宝をまもるように、つとめ励むのをまもる。

「ダンマパダ」二六

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