随筆 限界峠を超えて

カムチャツカの真実 2

蟹工船 協宝丸の世界

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 カフラン沖

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カムチャツカ  蟹工船

 

1970 「協宝丸」乗船

1971 「晴風丸」乗船

 

カムチャツカ漁場航路図

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記憶をたどり書き続ける ノンフィクション物語

 






カムチャツカ  蟹工船 

 協宝丸の世界

 


 

カムチャツカ半島と漁場図

漁場

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強い信念は 精神を制す!

わたしは、一九五〇年、昭和二五年生まれである。

わたしは今でも、西カムチャツカ記憶海域で生きている。

別に思い出を引きずってなつかしんでいるのではない。

それほど、二十歳の青年には強烈な経験であった。

社会人二年生の右も左もわからない鼻タレが、いきなり函館の地から他国の海上に運ばれた

のである。それも四ヶ月も土も踏めない世界へ。男だけの生き地獄の船国一国へ。

蟹工船の思い出もそうであるように、ひとつの経験が、その後の人生に大きく係わってくる

のは、よく聞くはなしだ。思い出はその年代の、その場所で、その期間に、その人達と、

その時間でしか創ることができない。

特に蟹工船は、数秒前まで過ごしていた日常が、突然船国の非日常に変貌するのである。

この巨大な落差が創る思い出を、わたしのもっている文章能力では、到底あらわすことなど

できはしない。

蟹工船の思い出は、かぎられた居場所空間と、増えることのない人間関係。

単調な非日常生活の克服。不規則で悪列な労働環境と、それに全く関知しない、

規則正しく過ぎていく時間とが、折り重なり合い出来ている。今も、年数という重石に圧縮

されながらも、エキスは抽出されずに残っている。

それはすなわち、幾年たとうが古臭くもなく、セピア色にも変色せず、いつまでも新鮮である

ということだ。

わたしにとっては、忘れがたい最高級でこの上なき上質な思い出なのだ。

勿論、最高傑作品なのである。

がしかし、悲しいことに、この最高傑作品を、記憶が留めておけないようなのである。

上質の思い出も、少しずつ記憶の彼方へと流れているようだ。

先述したが、多喜二氏が書いた蟹工船と、私が経験した蟹工船とでは時代背景が大きく異な

る。だが、人の心身からみる限界超越、超過酷労働はそう違わないように思われる。

ということは、日本人の商いに対する根幹の構えは、何年経とうともそう大きく変わってい

ないということになる。

掛けた経費が高額であればあるほど、回収への道筋は巧妙なのである。

そのためには人を死の淵ぎりぎりまで働かせることなど、何のためらいもなく行われる。

それは机上の設計技師きどりで、いとも簡単に線引きがなされるのであった。

それが一因なのかは知らないが、多喜二氏の蟹工船には暴力沙汰やリンチがよくでてくる。

わたしの時代にも喧嘩はよくあった。喧嘩と暴力沙汰は同じなのかなぁ。

部屋で喧嘩がはじまって外の広場まで出てきたら、甲板の階段ハッチを必ず閉める。

ハッチを閉めるのはこの時だけだ。

喧嘩が甲板までもつれ込んで、まかり間違って海にでも落ちたなら一巻の終わりである。

それを誰も見ていなかったら完全犯罪成立などということにもなりかねない。

酒のうえのけんかで、お互い顔が腫れるぐらいに殴り合った相手と今夜も酒を酌み交わす。

「夕べは、すまながったなぁ…。」

「いや…、なんもだ…、おれも、わるがったぁ…。」

などと言いながらまた飲むのである。よくあることだ。

その人が嫌になっても船国は逃げ場所がない。地獄仲間の熱い友情の証しなのである。

だが、喧嘩できるのも元気なころだけ。疲れてくると口争いさえできなくなってくるのだ。

疲れ果てそれどころではない。

仕事がどんなに辛くとも、乗組員の目指す目標は心身健全下船である。

精神も肉体も、乗船の時と同じ健康状態で船を降りることなのだ。

そうして次に乗組員の目標が金である。

多喜二時代もそうであるように、これは大きな目標であったに違いない。

勿論、得た金は労働とつりあわない金額である。

カムチャツカもオカと同じで金より仕事の責任の方がはるかに重い。

いただいた金は、自分のため息で飛んでしまうような金額なのだ。

たしかに金額だけで比較すると、歳のわりには高額ではあった。

だがあの労働内容、労働日数からみてもとてつもなく安い金額である。

がしかし、労働の神は見捨てなかった。こんな貴重な経験を与えてくれたからだ。

今も、身体中にずっしりと重く沁み込んでいる。生涯忘れることなどない。

IZA! となると経験に勝る強い味方はないのだ。

蟹工船 協宝丸は、「船国」という名の国である。

先ほどから、船国一国といっているが、まさしく荒れ狂う海に浮かぶ鉄の国なのだ。

外界と一切関係を断った国。

鳥も飛ぶのを諦めた遠い国。

それが船国一国なのである。

船国は、非日常を日常とする国だから、金と交換で命を突きだすこともある。

蟹工船の金銭感覚が引き起こす、非日常の命の最終章がここから始まる。

我慢に限界ギリギリまで働かせ、結局病気に命を取られてしまう。

なぜ我慢は限界へと向かうのか。金が我慢を説得するからである。

要するに、自分の意志では抑えることができない、はかり知れない強力な金欲が

起こるのである。

限界の飛び越えバーにはこう書かれているという。

「休むと金にならねーよ。金が、欲しいンダベー。」と。

また、長い航海が強い郷愁を生み、精神を病ませることがあるのだ。

これは、可哀そうでみていられない。はやく帰してやればいいのにと思う。

勿論、仕事にならない。ベッドの上で黙っているのである。ほんとうにかわいそうだ…。

それらとは逆に、船国は強烈な試練からいい意味での、まったく違う自分を発掘してくれる。

わたしが得たのはこれである。今までにない自分の発見であった。

いまその自分は心の奥底に鎮座している。IZA! となれば覚醒するのだ。

二十歳で知った、もう一人の自分である。

そのもう一人の存在は、強い信念とぶれない目標を持ち続けることに対し、大きな役割を

はたすこととなる。

わたしは非日常の底に陥ることなく、毎日何とかその淵にしがみついて生きていた。

ところが、蟹工船のつわものたちは、船国の非日常生活をオカの日常と変わらずに暮らし

ていたのだ。

彼らが優れているのは日常と非日常の線引きの速さ。

非日常への変わり身の徹底さ。

蟹工船時間への溶け込みの巧みさ。

そして、完璧な心身健康管理者なのであった。

彼らをみていると、われわれにはなかなか取得できない、蟹工船時間を捉えているのが

わかる。そして、そのなかに自分を生かしているのだ。

だからといって楽なわけではない。十二分に九労働を背負い込んでいる。

ただ彼らは、蟹工船の非日常生活のなかで、絶対にしてはいけないことを知っているのだ。

そこがわれわれと違うところだ。してはならないことは、しない。

これが、蟹工船時間で生きていく鉄則なのである。

それは、決して怠けることではなく、かといって、がむしゃらにするものでもない。

そして、自分は弱者であって独りでは絶対生きていけないと、固く決めつけるのである。

そこから、表出されるのが強固な仲間意識なのだ。

独りではできないが仲間となら何でもできる。

そして、この地獄から無事帰還するには、過信と無理な決行は絶対にしてはならない。

彼らは、ゆったりとした動作で働いていた。その行動には無理が感じられなかった。

時間のなかを自分流で滑らかに生きていたのである。

そう、怠けるでもなく、がむしゃらでもないのだ。

そうして、そのなかでゆるぎない信念と強固な精神が育まれていく。

生き地獄の淵で、四ヶ月も這いつくばって生きていかなければならないのだ。

かれらは身をもって知っている。

過信と無理な決行は、自ら死を招く引き金になることを…。

軟弱な精神など不要なのだ。身につけたなら自分を亡ぼすだけなのである。

何のプラスにもならない。

強い信念は精神を制す。

これほどわかりやすい精神論など、オカには見当たらないであろう。

わたしの心身にも、この精神論がとけこんでいる。

実践して取得した究極な訓えなのだから…。

ところで、みなさんは知っているであろうか。タラバカニの名前の由来を。

タラバカニは鱈の漁場で捕れる蟹だから、鱈場蟹 という。

カムチャツカではとても大きな鱈が釣れる。

二百海里経済水域の設定により北洋漁業は廃止となって半世紀近くもなる。

今だ、禁漁のままである。

西カムチャツカは今、タラバの墓場になっているに違いない。

稀有のめぐり合わせ

私の生家は、代々農業と精米所、肥料の小売業を生業としていた。

私が物心ついたころには、精米所はなかったが肥料の小売業はしていた。

子どもの頃、肥料の量り売りには困った。

昼間、両親は畑に行っているので家には誰もいない。

それでも肥料がほしい人は、わたしが学校から帰ってくる時間を見計らって来るのである。

そのころ、何年生だったのか記憶がないのだが、算数の授業で貫目とkgの違いを習っていた

ころであった。

「ともみちゃーん!」

玄関から私を呼ぶ声がする。私が帰ってきているのを知っているのだ。

何度かよばれて、渋々出ていく。

「あっ、ともみちゃん。硫安、七百匁ちょうだい。」

硫安は知っているが、七百匁が…。

困った顔をしていると、そのおばさんがたまりかねていうのである。

「ともみちゃん。おばさん、量ってもいい…。」

願ったり叶ったりである。コクっとうなずいてスコップとバケツをわたす。

「お金ね。晩に、払いに来るからね。」

これが、大きな間違いのはじまりなのである。

肥料を売ったらチラシの裏側を利用して作っている売上帳に、ちゃんと記入しなければ

ならない。記入項目は、月日、名前、品名、貫目、金額、現金、未収などであった。

その晩、今日の売上報告をしなければならない。

今日はなんで未収なのか理由をいう。

「そのくらい、わからねーのかぁ!」

オヤジに物凄く怒鳴られた。

精米所跡は三〇畳位の何もないだだっ広い物置となっていた。

家族はこの空間を工場と呼んでいた。こうじょう、ではなく、こうば、である。

この工場の二階がお爺の部屋であったという。

私が生まれた頃、お婆が結核にかかってお爺にうつって、お婆が治ったという。

本当の事なのか定かではないが、そのように聞いていた。

勿論、医学的に在りうることなのか皆目わからない。

お婆から、結核をうつされたお爺は、工場の二階に隔離された。

お爺が二階から、「ともみー、ともー。」と呼んでいたという。

一~二歳の私は、障子を伝い歩きしながら、ウ、ウー、と返事をしていたという。

真ん丸の目をした、かわいい赤ちゃんであった。(今もおなじだ!)

父は高校生のころ、精米所を手伝いながら学校へ通っていた。

そのうち精米は父の仕事となる。

その頃の父の仕事ぶりを、お婆から何度か聞いたことがあった。

父は一俵六〇キロの米俵を、左肩に担いでもう一俵を右手に持ち仕事をしていたという。

そんな父は、身長は百六十㎝でけっして高い方ではない。

体躯は筋肉隆々であったという。わたしの記憶のなかの父もそうであった。

みなさんが今持っている心の物差しで親をはかることができますか。

わたしたちの心の物差しはゴム製だといいます。

その時々の心のありようで収縮自在に変化するからである。

子は親をはかることなどなかなかできない。親も子をはかることなど難しい。

しかし、おもいやる心があればできるといいます。

そのはかりが、念 (おもう)であるという。

この念に刻まれている目盛りは、親であれば子への愛しさで、子であれば親に対する

感謝だという。

われわれの身体の名称の下に、心の字が付いて意味をもつ箇所をご存知であろうか。

足、腕、胸、頭、肘、目、耳の下に、心を付けても意味不明である。

が、手の下に心を付けると、手心となる。

たくさんある身体の箇所の下に心を付けて意味をなすのは、手一箇所なのである。

そう、手は心の化身なのだ。手は心そのものなのだ。われわれは手心で育てられたといえる。

ことわざに、手心を加えるということばがある。これも優しさのひとつの表れだ。

ところでみなさんの両親は今も健在ですか。あなたは親業をして何年になりますか。

親の責任は、自己管理が届かない、今を超越したところまで続いているという。

われわれには無辺ともいえる両親がいた。

その無辺のいのちの頂点に、今われわれがあるのです。

どの時代の親も、怠けることなく、いのちを完全燃焼した証しなのである。

ご先祖さまを十代遡ると、千二十四人いるという。

二十代遡ると、 百四万八千五百七十六人。

さらに、三十代では、十億七千三百七十四万一千八百二十四人です。

四十代では、十兆人以上だという。

だから、自分のいのちを、自分勝手にしていいなどということは、絶対にあってはなら

ないのだ。

子供がいない人はいるけれど、親のいない子供はいない。

親に感謝の念を持たなければ、今までの人生は根本的に無いと同じだと思う。

いま、ここに生きているこの事実を否定することなどできはしない。

どんな事柄でも存在の意味があり、意味ある存在だという。

生き通しの意識である魂の存在はその代表ではないだろうか。

その意味ある生命存在のわたしは、五人兄弟姉妹の四番目の次男として生命を授かった。

世間の大勢の子供たちと同じく、産みの親に育てられたのである。

そのわたしが二歳のころ、母親は床で泣き叫ぶわたしを見て、その姿に異変を感じたそうだ。

手足をバタバタさせながら泣き叫ぶ子ではなかったという。

わたしの左足は、寝ているかのようにピクリとも動くことなく母を求めていた。

小児麻痺であった。昭和二十年代、小児麻痺が流行していたのだ。

まさか我が子が流行り病にかかるとは、親としても信じがたい出来事であったろう。

今、わたしも子の親として考えてみると、その時の親の気持ちが痛いほど伝わってくる。

わたしは想うのです。

たとえ親が他界しても、どんな境遇に生まれた子供であったにしても、

途絶えることのない親の愛情と慈しみのなかで、今も生かされているに違いないと…。

おかげさまで、わたしは後遺症もほとんどなくここまで歩きつづけてこられた。

両親の愛と邊見先生の治療のおかげであります。

勿論、二歳のわたしに先生の記憶などありません。

それから十八年後に邊見先生と劇的な再会をするのです。

わたしが蟹工船に乗船するために、函館で健康診断を受けたその先生が、邊見先生でした。

先生は問診書を見て、もしかして、わたしではないのかと思ったそうです。

診察の時に先生は私の両親の名前を聞きました。

「やはり…そうでしたか…。お父さん、お母さんは、元気ですか…。…体…、大事にね…。」

二十歳の若者は先生のことばに、ただただ頭を垂れ涙するばかりでした。

わたしは、改めて両親の愛を感じたのです。



今、振り返ってみれば、わたしのカムチャツカ行きは、前世からの決まり事

ではなかったのか。

自分で仕組んだ、次の人生の試練であったのかもしれない、と…

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ささ舟のゆり籠

わたしは子供のころ 母の腕にすがり

メソメソ泣きながら おねだりしていました

それは それは 小さな小さな

世界のなみだでした

そのなみだが 土とホコリで汚れた顔に

ひとすじの細くて 深くて

きれいな 小川をつくりました

わたしは その小川に浮かべた

ささ舟のゆり籠のなかで

いままで  生きてきたような気がするのです

悉有仏


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