釈尊 「人の道」   

参の巻

釈尊の「人の道」を読んでみよう。

我々はどのように暮らしていけばよいのであろうか?

知らないよりも、知ってたほうが良い

知ったなら、実行するが良い

けれども・・・

悉有仏

Microsoft Word - と 印


Microsoft-Word---HP-16415

無常迅速

仏のあらわれたまうのは楽しい。正しい教えを説くのは楽しい。集いが和合してい

るのは楽しい。和合している人々が修養しているのは楽しい。

「ウダーナ」

ブッタ

「修行者僧たちよ。たとえば弓術に巧みな練達の弓術が四人、東西南北の四方に

立っていたとしょう。そこへ一人の男がやってきて、『四人がそれぞれ四方の方

向へ向かって矢を射てください。そうすればわたしがそれぞれの矢が落ちる前に

べてつかまえてごらんに入れましょう。』といったとする。君たちはどう思う

か、の人はたいへん敏捷(びんしょう)な人といわねばならないだろう」

修行僧

「世尊よ、ひとりの弓術師の射た矢さえ大地に落ちる前につかまえたとして

も、大変なはやさなのに、それも四人となればもはやその速さは申すまでもござい

ません」

ブッタ

「修行僧たちよ、その男よりもっと速いのが日月の運行である。そしてそ

の日月が天を走るよりさらに速いのが、人の寿命の消滅する速さである。

このように考えて、我等は努め励まなければならない

「相応部経典」譬喩相応

つとめ励むのを楽しめ。おのれの心をまもれ。自己を難処から救い出せ。

――泥沼に落ちこんだ象のように。

「ダンマパダ」三二七

愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、つねに明らかな知慧あり思い

静かな人が一日生きるほうがすぐれている。不死の境地を見ないで、百年生きるよ

りも、不死の境地を見て一日生きるほうがすぐれている。

「ウダーナ」

空住について

財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空に

して無相であるならば、かれらの行く路(足跡)は知りがたい。――空飛ぶ鳥の迹

の知りがたいように。その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱

の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知りがたい。

――空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

「ダンマパダ」九二・九三

片隅に坐したサーリプッタ尊者に尊師は、このようにいわれた。

「サーリプッタよ。そなたの心身のもろもろの器官は清く明るく見える。皮膚の色

は、まったく浄らかで、清く明るい。そなたは今日いかなる境地に安住していたの

か。」

「尊師さま。わたしは、いままで空の境地に多く住していました。」

「サーリプッタよ。みごとだ、みごとだ。そなたは今日は大いに偉大な人の境地に

住していたわけだ。この偉大な人の境地に住するとは、すなはち空に住することな

のである。

「マッジマ・ニカーヤ」

死克服への道

つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるは死の境涯である。つとむ励む

人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである。

「ダンマパダ」二一

つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。

そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、

死の王は見ることがない。

「スッタニパータ」一一一九

死克服の方法

カッチャーヤナよ、この世間の人々は多くは二つの立場に依拠(いきょ)している。そ

れは、すなわち有と無とである。もしも人が正しい智慧をもって世間、世の人々の

らわれ出ることを如実に観じるならば、世間において無はありえない。

また人が正しい知慧をもって世間の消滅を如実に観じるならば、世間において有は

りえない。

カッチャーヤナよ、「あらゆるものがある」というならば、これはひとつの極端で

る。「あらゆるものがない」というならば、これも第二の極端である。人格を完

た人は、この両極端説に近づかないで、中道によって法を説くのである。

「サンユッタ・ニカーヤ」

世界は常住か

或る人が毒矢に射られて苦しんでいるとしょう。かれの親友、親族などはかれのた

めに医者を迎えにやるであろう。しかし矢にあたったその当人が、「わたしを射た

者が、王族であるあるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷であるかを知ら

ない間は、この矢を抜き取ってはならない。またその者の姓や名を知らない間は、

抜き取ってはならない。……」と語ったとする。それでは、この人は、こういうこ

とを知り得ないから、やがて死んでしまうであろう。それと同様に、もしも或る人

が「尊師がわたしのために世界は常住であるか、常住ならざるものであるかなどと

いうことについていずれか一方に断定して説いてくれない間は、わたしは尊師のも

とで清らかな行いを実修しないであろう。」と語ったとしょう。

しからば、修行を完成した師はそのことを説かれないのであるから、そこでその人

は毒がまわって死んでしまうだろう。

「マッジマ・ニカーヤ」マールンクヤ小経

それ故にここにわたくしがいずとも断定して説かなかったことは、断定して説かな

かったこととして了解せよ。またわたくしが断定して説いたことは、断定して説い

こととして了解せよ。……何故にわたくしはこのことをいずれとも断定して説か

かったのか。何となれば、このことは目的にかなわず、清らかな修行の基礎とな

ず、世俗的なものを厭(あ)い離れること、欲情から離れること、煩悩を制し滅す

こと、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、安らぎ(ニルヴアーナ)のために

らないからである。

「マッジマ・ニカーヤ」マールンクヤ小経

しからば、わたくしは何を断定して説いたのであるか。

「これは苦しみである。」「これは苦しみの起こる原因である。」「これは苦しみ

の消滅である。」「これは苦しみの消滅に導く道である。」という

ことを、わたくしは断定して説いたのである。何故にわたくしはこのことを断定し

て説いたのであるか。これは目的にかない、清らかな修行の基礎となり、世俗的な

ものを厭い離れること、欲情から離れること、煩悩を制し滅すること、心の平安、

すぐれた英知、正しい覚り、安らぎのためになるものである。

それ故にわたくしはこれを断定して説いたのである。

「マッジマ・ニカーヤ」マールンクヤ小経

生死を越える

世の中はうたかたのごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこ

のように観じる人は、死王もかれを見ることがない。

「ダンマパダ」一七〇

二俊哲の帰依

「一切の形成されたものは無常である」……。

「一切の形成されたものは苦しみである」……。

「一切の事象は無我である」と明らかな智慧をもってみるとき、ひとは苦しみから

遠ざかる。これこそひとが清らかになる道である。

「テーラガーター」六七七・六七八

師が答えた「セーラよ。わたしがまわした輪、すなわち無上の輪(法輪)を、サー

ップタがまわす。かれは全き人につづいて出現した人です」

「スッタニパータ」五五七

「もろもろのことがらは原因から生じる。真理の体現者はそれらの原因を説きたも

う。またそれらの止滅をも説かれる。偉大なる修行者はこのように説きたまう」

すると、遍歴行者サーリプッタは、この法に関する教えを聞いて、塵なく汚れなき

理を見る眼が」生じた、――「およそ生起する性あるものは、すべて滅び去る性

ものである」と。

「律蔵」

智慧が深く、聡明な英知に富み、種々の道に通達し、大いなる知慧あるサーリップ

は、もろもろの修行僧に、ことわりを説く。かれは簡略に説くこともあり、ま

た、しく語ることもある。九官鳥の鳴き声のように、自由自在な弁舌の才を発揮

る。れが、魅惑的な、聞くに快い、甘美な声で教えを説いているとき、その甘く

快い聞いて、修行者たちは、心喜び、なごんで、耳を傾けた。

「サンユッタ・ニカーヤ」

三種の明知あり。死を捨て去った仏弟子たちは、かの山腹に坐り、苦しみの彼岸に

した聖者(ブッタ)に仕えている。

大神通力のあるモッガラーナは、みずからの心を精査し、かられの心がすっかり解

し、こだわりのなくなっているのをたずね求める。

「サンユッタ・ニカーヤ」

サーリップッタとモッガラーナが亡くなってから、こうした集会はすっかり虚しい

のになってしまった。

しかし、修行僧たちよ、この世においてつくられたもので、壊れ滅しないものがあ

道理はないのである。大きな樹にあって、枝が先に枯れてしまうことがあるよう

に、かの二人も先に亡くなってしまった。この世においてはすべては無常である。

に、自らを州とし、自らを依り処として他を処とせず、法を州とし、法を依り処

してを依り処とせずにあれ」

「相応部経典」四七―十四 取意

ブッタの影となって

二十五年の間、わたしは慈愛にあふれた身体の行いによって……慈愛にあふれたこ

ころの行いによって、尊き師のおそばに仕えた。――影が身体から離れないよう

に。ブッタが経行(きんひん)されているとき、わたしは、その後からついて経行し

た。また、ブッタが教えを説かれているときわたしに知慧が生じた。

わたしは、またなすべきことのある身であり、学習する者であり、まだ心の完成に

達していない者であった。それなのに、わたしを慈しみたもうた師は、円な安らぎ

に入られた。あらゆるすぐれた特性を具えた覚者が、円な安らぎに入られたとき、

そのとき、恐怖があった。そのとき、身の毛のよだつことがあった。

「テーラガーター」一〇四一―一〇四六

女性の出家者

わたしは、分娩の時が近づいたので、歩いて行く途中で、わたしの夫が路上に死ん

でいるのを見つけた。わたしは子どもを産んだので、わが家に達することができな

かった。貧苦な女にとっては、二人の子どもは死に、夫もまた路上に死に、母も父

も兄弟も同じ火葬の薪で焼かれた。一族が滅びた憐れな女よ。

そなたは限りない苦しみを受けた。

さらに幾千の苦しみの生涯にわたって、そなたは涙を流した。

さらにまた、わたしは、それを墓場のなかで見た。子どもの肉が食われているの

を。わたしは一族が滅び、夫が死んで、世のあらゆる人々には嘲笑されながら、

不死の道を体得した。

わたしは、八つの実践法よりなる尊い道、不死に至る道を実習した。

わたしは、安らぎを現にさとって、真理の鏡を見た。

「ターリーガーター」二一八―二二二

汝(にょ)忍(にん)受(じゅ)せよ

ある人々は、杖とか、鉤(かぎ)とか、鞭(むち)とかで、調練する。

わたしは、杖にもよらず、刀にもよらず、立派な人(ブッタ)に調練され

た。わたしは、以前には「アングリマーラ」という悪名で知られていた。

大きな激流に流されていたが、すでにブッタに帰依するに至った。

「テーラガーター」八七六・八八〇

以前には怠りなまけていた人でも、後に善によってつぐなうならば、その

はこの世の中を照らす。

――雲を離れたつきのように。

以前には悪い行いをした人でも、後に善によってつぐなうならば、その人

はこの世の中を照らす。

――雲を離れた月のように。

「テーラガーター」八七一・八七二

「バラモンよ、忍受せよ、そなたは忍受しなければならない。

かって犯した悪業によって幾百年、幾千年、地獄において受けるであろうその

報いを、今ここで受けているのである」と。

「中部経典」

安楽に生きる

「大王よ。あなたはどうお考えなりますか。手足をまだ切断されていない人々が、

手足を切断することは苦痛であるということを知っているでしょうか」

「尊者よ、そうです。かれらは知っているでしょう」

「どうして知っているのですか」

「尊者よ、他人が手足を切断されたときの悲痛な声を聞いて、手足を切断されるこ

とは苦痛であるということを知るのです」

「大王よ、それと同様に、いまだニルヴアーナを得ない人々でもニルヴアーナを体

得した人々の声を聞いて、ニルヴアーナは安楽であるということを知るのです」

「ミリンダ王の問い」

この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを

き去ることが、不滅のニルヴアーナの境地である。

「スッタニパータ」一〇八六

いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、

――これが州にほかならない、それをニルヴアーナと呼ぶ。

これは老衰と死との消滅である。

「スッタニパータ」一〇九八

迷いの生存にみちびく妄執が消滅して、事象をありのままに見たときには、死にた

いする恐怖は存在しない。

――たとえば、荷をおろしたときにはほっとしてもはや恐怖が存在しないようなも

のである。

「テーラガーター」七〇八

わたしは、清らかな行いをよく実践してきた。道もまたよく修めた。わたしには死

たいする恐怖は存在しない。

――たとえば病気が癒えたときには死にたいする恐怖が生存しないように。

「スッタニパータ」七〇九

彼岸に達し、執着することなく、つとめを果たし、汚れのなくなった人は、寿命の

尽きることに満足している。

――たとえば、刑場から釈放された人のように。

「スッタニパータ」七一一

大きな火が燃え立っていても、薪がなくなると、消えてしまう。燃え残りがあって

も、「火は消えた」といわれる。

「テーラガーター」七〇二

激流をわたる

人はいかにして激流を渡るのであるか? いかにして海を渡るのであるか? 

いかにして苦しみを超えるのであるか? 

いかにしてまったく清らかとなるのであるか?

人は信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。

勤勉によって苦しみを超える、智慧によってまったく清らかとなる。

「スッタニパータ」一八三・一八四

「昔、一人の牛飼いがいた。雨期も終わったので、牛の群れをガンジス河の向う岸

へ渡そうとした。ところがよく河の状態を観察することもなく、渡し場としては不

都合なところを渡そうとしたので、牛は河の中で溺死した。一方もう一人の牛飼い

は、よくこちらの岸、此岸と、あちらの岸、彼岸をよく観察して渡し場を選び、無

事すべての牛を彼岸へ渡すことができた。これと同じように修行者は、此岸と彼岸

のことをよく知って人々を導かねばならない」と。

「マッジマ・ニカーヤ」

ある人が旅の途中で大洪水の河に出会った。

どうしてもこちらの岸はあぶないが、あちらの岸は安穏で恐ろしくないとしよう、

あちらの岸に渡りたいが、舟も橋もない。そこで彼は考えた。わたしは草・木・

枝・葉をあつめて筏を作り、それによってかの岸へと渡ろうと。

そして彼は材料を集めて筏を作り、安全にかの岸へ渡った。そのとき彼は思った。

「わたしはこの筏に乗って河を渡り得て、かの安全な岸に着くことができた。この

筏は実に有益なものであった。さあ、わたしはこの筏を頭にのせ、あるいは肩にか

ついで、この先旅をつづけよう」と。

修行僧らよ、この人の考えを汝らはどう思うか――左様この人の考えはまちがって

いるだろう。しからば、彼はどうしたらよいであろうか。

「たしかにこの筏は有益であった。しかし、この筏の役割は終わった。この筏は岸

辺において、旅をつづけよう」と。

修行僧らよ、わたしは汝らが執着をはなれるようにと、この筏のたとえを説いた。

このたとえを知った汝らは、法をも捨てなければならない。いわんや非法をや。

「マッジマ・ニカーヤ」

解脱とは何か

ウパシーヴアがたずねた、

「シャカ族の方よ。わたくしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩

の激流をわたることはできません。わたくしがたよってこの激流をわたり得るより

どころをお説きください。あまねく見る人よ。」

師(ブッタ)は言われた、

「ウパシーヴアよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、『何も存在しない』と

おもうことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離

れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」

「スッタニパータ」一〇六九・一〇七〇

師が答えた

「ウパシーヴアよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって、火とし

ては数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまっ

て、存在する者としては数えられないのである。」

「スッタニパータ」一〇七九

「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか。あるいはまた常住であって、

そこなわれないのでしょうか。

聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるが

ままに知っておられるからです。」

師は答えた、

「ウパシーヴアよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれ

を、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがすっ

かり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」

「スッタニパータ」一〇七五・一〇七六

「我有り」と考える不当な思惟の根本を制止し、内に存在するすべての妄執を制す

るために、常に心して学べ。

「スッタニパータ」九一六

死ぬよりも前に、妄執をはなれ、過去にこだわることなく、現在においてもくよく

よと思いめぐらすことがないならば、かれらは未来に関しても特に思いわずらうこ

とがない。

「スッタニパータ」八四九

ジャトウカンニンよ。諸々の欲望に対する貪りを制せよ。

――出離を安穏であると見て。取り上げるべきもの、捨て去るべきもの、なにもの

も、そなたにとって存在してはならない。過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめ

よ。未来にはそなたに何ものもないようにせよ。中間においても、そなたが何もの

にも執着しないならば、そなたはやすらかにふるまう人となるであろう。

バラモンよ。名称と形態とに対する貪りを全く離れた人には、もろもろの煩悩は存

在しない。だから、かれは死に支配されるおそれがない。

「スッタニパータ」一〇九八―一一〇〇

ウダタよ。愛欲と憂いとの両者を捨て去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨を

やめること、平静な心がまえと念いの清らかさ、――それらは真理に関する思索に

もとづいて起こるものであるが、

――これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたくしは説

く。

「スッタニパータ」一一〇六・一一〇七

「世人は何によって束縛されているのですか? 

世人をあれこれ行動させるものは何ですか? 

何を断ずることによって安らぎ(ニルヴアーナ)があると言われるのですか?」

「世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである。

妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。」

「スッタニパータ」一一〇八・一一〇九

業と輪廻

この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、行き着く先は無明に

のみ在する。この無明とは大いなる迷いでありそれによって永いあいだこのよう輪

廻してきた。

しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。

「サッタニパータ」七二九・七三〇

平安に帰す

御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりを捨て、汚れのなく

った人――このような境地にある人を神々でさえも羨む。

正しい智慧によって解脱してやすらいに帰した人、――そのような人の心は静かで

ある。ことばも静かである。行いも静かである。

「ダンマパダ」九四・九六

やすらぎニルヴアーナとは虚妄ならざるものである。もろもろの聖者はそれを真理

であると知る。かれらはじつに真理をさとったがゆえに、快を貪ることなく、平安

に帰している。

「スッタニパータ」七五八

旅に出る

「アーナンダよ。ヴアッジ人は、しばしば会議を開き、会議には多くの人々が参集

する、ということをお前は聞いたか?」

「尊いお方よ。ヴアッジ人は、しばしば会議を開き、会議には多くの人々が参集す

る、ということをわたしは聞きました」

「それでは、アーナンダよ。ヴアッジ人が、しばしば会議を開き、会議には多くの

人々が参集するあいだは、ヴアッジ人に繁栄が期待され、衰亡はないであろう」

「大パリニッバーナ経」

マンゴーの林にて

次いで尊師は、ある人々が舟を求め、ある人々は筏を求め、ある人々は捊(いかだ)を

結んで、あちらとこちらへ行き来正としているのを見た。そこで尊師はこのことを

って、そのときこの感興(かんきょう)のことばをひとりつぶやいた。

沼地に触れないで、橋をかけて広く深い海や湖を渡る人々もある。木切れや蔓草(つ

るくさ)を結びつけて筏を作って渡る人々もある。

聡明な人々は、すでに渡り終わっている。

「大パリニッバーナ経」

彼女は、乗り物に乗って行ける距離は乗り物で行って、次に乗り物からおりて、徒

歩で尊師のおられるところに近づいた。近づいてから、尊師に挨拶して、傍らにす

わった。

傍らにすわった遊女アンバパーリーを、尊師は法に関する講話によって教え、さと

し、励まし、喜ばせた。

そこで遊女アンバパーリーは法に関する講話によって、尊師に教えさとし励まし喜

ばされて、尊師に次のようにいった。

――「尊いお方よ、尊師は明日わたしの家で、修行僧らとともに、お食事をなさっ

てください」と。尊師は沈黙をもって同意を示された。そこで遊女アンバパーリー

は尊師の同意を知って、座からたって、尊師に挨拶し、右肩を向けてまわって、

ていった。

「大パリニッバーナ経」

病を得る

「さあ、おまえたち修行僧らよ。ヴエーサーリーのあたりで、友人をたより、知人

をたより、親友をたよって、雨期の定住(雨安居)に入れ。

わたくしもまたここのべールヴア村で雨期の定住に入ろう」

「かしこまりました。」と、その修行者たちは尊師に答えて、ヴエーサーリーのあ

たりで、友人をたより、知人をたより、親友をたよって、雨期の定住(雨安居)に

入った。尊師もまたそこのべールヴア村で定住に入られた。

「大パリニッバーナ経」

アーナンダよ。修行僧たちはわたくしになにを期待するのであるか? わたくしは

内外の隔てなしに、ことごとく理法を説いた。全き人の教えには、なにものかを弟

子に隠すような教師の握(あく)拳(けん)は存在しない。「わたくしは修行僧の仲間

を導くであろう」とか、あるいは「修行僧の仲間はわたくしにたよっている」とこ

のように思う者こそ、修行僧の集いに関してなにごとかを語るであろう。

しかし向上につとめた人は、「わたくしは修行僧の仲間を導くであろう」とか、

あるいは「修行僧の仲間はわたくしにたよっている」とか思うことがない。

向上につとめた人は修行僧の集いに関してなにを語る出あろうか。

「大パリニッバーナ経」

アーナンダよ。わたくしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過

ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。たとえば古ぼけた車が革紐の助けに

よってやっと動いていくように、おそらくわたくしの身体も革紐の助けによって

もっているのだ。

しかし、向上につとめた人が一切の相を心にとどめることなく若干の感受を滅ぼし

ことによって、相のない心の統一(無相の心三昧)に入ってとどまるとき、その

とき、かれの身体は健全(快適)なのである。

それゆえ、この世でみずからを島として、みずからをたよりとして、他のものをた

とせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとする

な。

「大パリニッバーナ経」

アーナンダよ。ここに修行僧は身体について身体を観察し、熱心に、よく気をつけ

て、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。

感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における

貪欲と憂いとを除くべきである。

心について心を観察し、、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪

欲と憂いとを除くべきである。

もろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じ

ていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。

「大パリニッバーナ経」

病が癒えて

さて尊師は早朝に内衣を着け、外衣と鉢とをたずさえて、托鉢のためにヴエーサー

リー市に入っていった。托鉢のためにヴエーサーリーを歩んで、托鉢行からもどっ

て、食事をすませたあとで若き人アーナンダに告げた。

――「アーナンダよ。坐具をもって行け。わたしはチャーパーラ霊樹のところに行

う、――昼間の休息のために。」

「かしこまりました。」と、若き人アーナンダは尊師に答えて、坐具をたずさえ

て、尊師のあとにつきしたがって、ついて行った。

そこで尊師はチャーパーラ霊樹のもとに赴いた。赴いてから、あらかじめ設けられ

いた座席に坐した。若き人アーナンダは尊師に敬礼して、一方に坐した。一方に

た若きアーナンダに、尊師はこのように言われた、――「アーナンダよ。

ヴエーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカは楽しい。

七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。

バフブッタ霊樹の地は楽しい。サーランダダ霊樹の地は楽しい。チャーパーラ霊樹

の地は楽しい。」

「大パリニッバーナ経」

そこで尊師は朝早く、内衣をつけ、衣と鉢をたずさえて、ヴエーサーリー市に托鉢

のために入っていった。ヴエーサーリー市において托鉢をして、托鉢から帰ってき

て、食事を終えて、象が眺めるように身をひるがえして、ヴエーサーリー市を眺め

て若き人アーナンダに言った、

「アーナンダよ。これは修行完成者がヴエーサーリーを見る最後の眺めとなるであ

ろう。さあ、アーナンダよ。バンダ村へ行こう」と。

「かしこまりました」と、若き人アーナンダは尊師に答えた。

「大パリニッバーナ経」

嘆くなアーナンダよ

さて尊師が鍛冶工の子チュンダの食物を食べられたとき、激しい病が起こり、赤い

血が迸(ほとばし)り出る、死に至らんとする激しい苦痛が生じた。尊師は実に正しく

念い、よく気をおちつけて、悩まされることなく、その苦痛を耐え忍んでいた。さ

て世尊は若き人アーナンダに告げられた、「さあ、アーナンダよ、わられはクシ

ナーラーへ赴こう」と。「かしこまりました。」と

若き人アーナンダは答えた。

「大パリニッバーナ経」

それから尊師は路から退いて、一本の樹の根もとに近づかれた。近づいてから、若

き人アーナンダに言った。

「さあ、アーナンダよ。お前はわたくしのために外衣を四つ折りにして敷いてく

れ。わたくしは疲れた。わたくしは坐りたい。」

「かしこまりました。」と、アーナンダは尊師に答えて、外衣を四つ折りにして敷

いた。

尊師は設けられた座に坐った。坐ってから、尊師は若き人アーナンダに言った。

「さあ、アーナンダよ。わたくしに水をもって来てくれ。わたくしは、のどが渇い

ている。

アーナンダよ、わたくしは飲みたいのだ。」

「大パリニッバーナ経」

さて、尊師は若き人アーナンダに告げた。

「さあ、アーナンダよ。ヒラニヤヴアテイー河の彼岸にあるクシナーラーのマッラ

族のウパヴアッタナにおもむこう」と。

「かしこまりました。尊いお方よ」と、若き人アーナンダは尊師に答えた。そこで

尊師は多くの修行僧たちとともにヒラニヤヴアテイー河の彼岸にあるクシナーラー

のマッラ族のウパヴアッタナにおもむいた。そこにおもむいて、アーナンダに告げ

たていった。

「さあ、アーナンダよ。わたくしのために、二本ならんだサーラ樹(沙羅双樹)の

あいだに、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。わたくしは疲れた。横になりたい」と。

「かしこまりました」と、尊師に答えて、アーナンダはサーラーの双樹のあいだ

に、頭を北に向けて床を設けた。そこで尊師は右脇を下につけて、足の上に足を重

ね、師子座をしつらえて、正しく念い、正しいこころをとどめていた。

「大パリニッバーナ経」

「やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。わたくしは、あらかじめこのように

説いたではないか、

――すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるにいたるということ

を。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊されるべきものであるのに、それが破滅

しないように、ということが、どうしてあり得ようか。そのようなことわりは存在

しない。

アーナンダよ。おまえは、長いあいだ、慈愛ある、安楽な、統一なる、無量の、身

とことばとこころとの行為によって、向上し来たれる人(ゴータマ)に仕えてくれ

た。

アーナンダよ。おまえはよいことをしてくれた。つとめ励んで修行せよ。すみやか

に汚れのない者となるだろう。」

「大パリニッバーナ経」

教団に受け入れられてまもなく、尊者スパッダは、ひとりで、群集から離れて暮

し、怠ることなく、熱心に、精神修行につとめて励んでいた。……その無上の清浄

行という究極の目標を、現世においてみずから、さとり、証し、具現していた。そ

して「生存は尽きた。清浄行はすでに確立した。なすべきことは、すでになし終

わった。もはやこのような状態にもどることはない」とさとった。

尊者スパッダは、尊敬されるべき真人の一人となった。かれは尊師の最後の直弟子

となった。

「大パリニッバーナ経」

アーナンダよ。

あるいは後におまえたちはこのように思うかもしれない。

「教えを説かれた師はましまさぬ。もはやわれらの師はおられないのだ」と。

しかしそのように見なしてはならない。おまえたちのためにわたくしが説いた教え

と、わたくしの制定した戒律とが、わたくしの死後におまえたちの師となるのであ

る。

「大パリニッバーナ経」

さあ、修行僧たちよ。おまえたちに告げよう。

「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」と。

これが修行をつづけてきた者の最後のことばであった。

「大パリニッバーナ経」

Microsoft Word - と 印


Microsoft-Word---HP-16415

次に

くらふと工房 悉有仏


ジオラマクラフト製作
 

サイト補足

当サイトでは拡大率100%に最適化されております。 Please set up the magnifying power of a browser to 100% at this site.