随筆 限界峠を超えて

カムチャツカの真実 1

蟹工船 協宝丸の世界

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 カフラン沖

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カムチャツカ  蟹工船

 1970 「協宝丸」乗船

1971 「晴風丸」乗船

 

カムチャツカ漁場航路図

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肉体 精神には限界がある

しかし

向上心には限界など見当たらない





悉有仏



限界峠を超えて

カムチャッカ 蟹工船

協宝丸の世界


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老健施設に勤務している家内が会社から帰宅するなりこう言った。

「ね! 明日、施設に函館から入所する人がいるンだけど、蟹工船に

乗っていたンだって…」

「幾つの人だ…」

「八十三だと思う。」(2018年度年齢)

「どこの会社の船に乗っていたのかな…」

「ともちゃんが乗っていた船の名前、何ていった!」

「協宝丸! 日魯だ!」

翌日、帰宅するなり…。

ね! ちょっと! ちょっと!! 

その人、佐藤優さんっていうンだけど、

ともちゃんと同じ船に乗っていたみたいだよ!

日魯の、何ていった…、協…宝丸だっけ…。

何でも、チャカー乗りだって。

二十五年乗っていたンだと。

うちの夫も協宝丸に乗っていたンだよといったら、驚いていたわ。

函館の人だから訛ってね。

あんたの父さんも協宝丸さぁ乗ってたンだ~、あいて~な~って

言っていたよ…。

わたしは二航海目の蟹工船を下船してから、札幌に居た高校の同級生のところに

転がりこみアルバイトをしながら暮らしていた。

二十一歳の秋のことである。

そのアパートの近くに老姉妹が切り盛りしていた古い古~い大衆食堂があった。

毎夜晩飯を食べに行くと、きまって奥のカウンターの席に一人のおじいちゃんが

スーツ・ネクタイすがたで杯を傾けていた。

そのおじいちゃんは、こんな場末の食堂に毎日晩飯を食べにくる若者を

不思議そうにみていた。

そんなある夜、おじいちゃんが。

お兄さん! 仕事何しているの? と聞いてきた。

わたしは蟹工船を下船して間もない頃であったので正直にそのように言った。

何! 蟹工船! おじいちゃんは口に盃をはこぶのをやめていった。

おじいちゃんの質問に答えていくうちに、その顔が、嘘を言うな! 

という顔つきに変わってきたのがわかった。言葉にこそださなかったが、

あきらかに顔がそういっていた。

わたしはその時に初めて、これは解ってもらえないのだなと思ったのである。

それ以来、半世紀蟹工船の話しはしていない。

話しをするなら経験者しかいないとおもったものだ。

そんな貴重な経験者にいつめぐり会えるというのだ。

生涯めぐり会うことなどないだろうと諦めていた。

ところが、家内の勤務先の施設で会えたのだ。

それもチャッカー乗りである。驚きだ!

これはもう偶然がもたらした奇跡としか思えなかった。

わたしは佐藤さんが入所して一週間もたたないうちに会いに出かけた。

初対面の二人は握手をしながら自己紹介をしていると、

佐藤さんの眼から涙があふれてきた。

わたしも胸いっぱいになり涙を流しながら佐藤さんをハグした。

小さく痩せおとろえた老体が私の腕のなかにすっぽりとおさまった。

その時、佐藤さんがぼっそっといった。話しのわがる人にようやく会えた~、と。

その想いはわたしもまったくおなじであった。

それから佐藤さんはベッドの端に座り涙をぬぐいながら話し始めたのである。

「わがんね! わがんね! カニだっきゃ、乗ったものでねば、わがんね! 

おらいの長男だば、

はぁ~っ。サンマの船長さぁ~してるだども、わがんね! なんぼ、話しだども、

わがんね! 

カニだっきゃ、乗ったものでねきゃ~わがんねんだ! 

…まさが、この歳になっで…同じ船さぁ乗ってた、父さんに会えるとはなぁ~

ありがてえ~もんだな~。死ぬまで、はぁ~ 

誰さも会えねって思ったもんな~。ようやく話しできるじゃ~ ありがてえ~」

長年、抑え込まれていた大きな想いが歓喜の悲鳴をあげながら

世にだされたということだ。

わたしは涙ながらに語ったチャッカー乗りの佐藤さんのこの想いを

完全に共有できた。

理解できない人は、それほど…とおもうだろうが、経験した者にとっては、

これはまさに、それほど…ということなのである。

それから二人は思い出の協宝丸に乗船し西カムチャツカへ出航したのであった。

土屋知実


蟹工船

「おい地獄さえぐだで!」

二人はデッキの手すりに寄りかかって、カタツムリが背のびをしたように延びて、

海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。

――漁夫は指先まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。

巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれすれに落ちて

行った。彼は身体一杯酒臭かった。



右の文章は、小林多喜二氏の「蟹工船」の冒頭の一節である。

彼自身が蟹工船を経験したのではない。

函館へ取材に出向き、蟹工船の経験者から、話しを聞いて書き上げたという。

物書きには情報収集が欠かせない。

この小説を書こうと、多喜二氏の気持ちを函館へと突き動かしたのは、いったい何だったの

だろう。当時の労使関係を、蟹工船の最悪な労働環境に置きかえて、社会に訴えたかったの

だろうか。そうであっても、なぜに蟹工船だったのだ。労使関係を書くなら、オカにいくら

でもあったろう。

小説では炭鉱夫、日雇人夫、漁師、百姓、学生、負債をしょいこんだ男など、さまざまな人

が乗り込んでくる。オカで何らかの事情を抱えている人たちが、いのちを引きずり、人生の

末端にやってくるのであった。

この人達のなかには、オカでも最悪な労働条件の下で働いていた男たちもいた。

だから労使なるものは、こうあるべきものであると、社会に問いかけたかったのだろう。

そして、その舞台となる蟹工船が、当時、社会にあまり知られていなかった。

ところが、一九二六年(大正一五年)四月二六日、北千島海域で座礁し、乗組員254人中

61人の犠牲者を出した、秩父丸事件が起きた。

また、その九月には、「博愛丸」や「英航丸」などで漁夫・雑夫たちの虐待事件が詳しく

報道された。

多喜二氏は、一九二七年(昭和二年)三月以来、蟹工船とその漁をめぐる事件につき、

綿密な調査を行ってきていたという。

それは作者にとって、労使関係で読者をひきつける、絶好のネタであったように思えてなら

ないのである。

函館で蟹工船経験者から、なまなましい労働環境を聞いた多喜二氏は、メモを取りながら、

頭のなかで物語を展開し、それを冷静かつ客観的に見ていたのだろう。

ところで、この小説を書きあげるまで、いったいどのくらいの期間を必要としたのであろう

か。女子美術大学教授 島村 輝著 解説「蟹工船」 時代を揺り動かすことばの力、

によると、多喜二氏は、一九二八年(昭和三年)十月末から、「蟹工船」の執筆にとりかか

り、足かけ六ヶ月を費やして、翌年、三月一〇日に下書きのノート稿を完成したとある。

そこには【一九二九・三・一〇・午前一時一五分擱筆す。百三十三日間(六か月間)を要す。

約弐百枚。(百八十枚)】というメモが書き入れられているという。

函館で情報収集を終えた多喜二氏は、帰路の列車のなかで、かなりの活字を走り書きで起こし

のではないか。そして、頭のなかで、最終までの道筋を描ききっていたのであろう。

でもこれは、あくまでもわたしの想像に過ぎない。

書きたくて、書きたくて、函館まで飛んで行ったその気持ちが、今、活字として残せる。

多喜二氏のはやる気持ちが、わたしには眼に見えるようである。

わたしも、突然、詩が浮かんできたときに、筆記用具や紙がないときがある。

そんな時は、今、欲しいのは空気ではなく、「紙と鉛筆! 」であった。

書き残せるものを得たよろこびは、それは、それは、このうえないうれしさなのである。

そんな気持ちで書き上げたであろう蟹工船を、母親に読んで聞かせたのだろうか。

もし母親が聞いていたなら、多喜二を自慢の息子と、さらに胸を張ったに違いない。

結局、多喜二氏は赤狩りで拷問にかけられ、耐えかねて死んでしまう。

死体となって家に帰ってきた多喜二を、仲間が慰霊にみえた。

母親は、無言で横たわる息子に、

「多喜二! もう一度立って見せねか!」

「皆のため、もう一度立って見せねか!」

と死体に向かっていうのであった。

わたしがこの蟹工船を、はじめて読んだ時、あまりにも現実離れをしているなと思った。

もっとも、小説と現実との違いなのだから、なんの不思議もないのだが。

だが、この小説は、事実に基づき書いたといわれている。

文章には、誇張されて書かれているところもあるのだろうが、嘘とはいえない。

わたしもこのたび、物書きに挑戦してみて、改めてわかったことがある。

それは、自分の能力の無さである。

あの過酷な蟹工船を、どのように文字列を組んで事実にせまれるのか。

読者が、このノンフィクションを読んで、蟹工船の臨場感を疑似体験できるのだろうか。

これは、誰もが文章を書くときに望むことに違いない。

今、わたしがまがりなりにも挑戦しようとしているのは、写実絵画の文字写実描写版である。

ほんとうに、文字は五十音しかないのか。自分の能力不足を棚に上げ自分に問うのである。 

わたしは、自分の詩を「超越五十音の世界観」といっている。

詩は無限に文字表現を持っているからである。そのように文章も表現できればよいのだが。

きっとこれから書き進めていくうちに、文字欠状態に陥っていくのではないだろうか。

蟹工船を読んでいて、なつかしい呼び名がいくつもでてきた。

わたしは、オカに上がって、もう五十年になろうとしている。

今も、覚えている呼び名は、当時、よく使われていたか、強い印象が残ったことばであろう。

事実、船でも多くの船専門用語がとびかっていた。

多喜二氏の小説もそうであるが、専門用語に交じって、何度もでてきたことばが、「ロシケ」

である。「ロスケ」ともいう。ロシア人のことだ。

この名を読んだとき、わたしは懐かしさのあまり、震えが起きたほどであった。

一瞬にして、目の前に蟹工船がよみがえった。

また何年か前に、北方領土のアニメ映画を見たときも、数十年ぶりにロスケということばを

聞いた。あのときもそうであった。震えが起きた…。きっと、カムチャツカを思い出したの

であろう。

一九七一年 昭和四六年 春 四月 函館港

「… まだ … 地獄だな …」

男たちは、不安顔で出航を待っている。

声は引きつり、顔もこわばり、笑顔も暗かった。

それは、乗組員の誰もが、これから先、何が起きるのかを知っていたからである。

この気持ちは、肩の骨がはずれるほど、大きなため息を何度ついても消えはしなかった。

オカの地獄の釜は、お盆に開く。蟹工船の地獄の釜は、この四月に開き、お盆に閉まる

のである。それまでの四カ月、二つの地獄の底を見ながら、生きていかなければなら

なかった。

これは、蟹工船二年目の時に岸壁で一年ぶりに再会した、同僚と交わしたことばとその

感情である。わたしは、西カムチャツカ母船式蟹加工船漁業が禁漁となる、三、四年前の

一九七〇年、二十歳の四月にはじめて乗船した。わたしにとっては、とても貴重な経験で

あった。もう少しで半世紀前になる。

この経験を記憶の川に流すのでは、自分に申し訳がたたない。

というわけで、わたしは記憶の中へ入りこみ、あの半世紀前の光景を、活字にしょうと試みる

ことにした。だが、わたしに文章力が乏しいがために、表現不足に陥るであろう。

それはまるで、絵画に薄いベールをかぶせて鑑賞しているのと同じである。

ただ、自分が経験したことを書けばよいのである。情報収集も資料集めもする必要がない。

がしかし、流石に半世紀前のこととなると話しは別である。

思い出すだけで大変な作業なのだ。記憶の川からすくいあげなければいけない。

まるで川魚を、網ですくっているのと同じである。だが、この川、獲物がいたって少ない。

だんだん魚すくいではなく、砂金採取のような作業になるのではないか。

思い出した順番に文字を起こし文章を作っていくのである。当然、筋道の行き違いが生じる。

何度も校正を繰り返し訂正していくのだが、その作業中にまた思い出し書き直す

始末なのである。そうするとまた行き違いが生じるのであった。だから、決めたのだ。

思い出すままに、書き溜めていこうと…。

蟹工船を懸命に思い出していたら、オカではたとえようのない素晴らしい

人間関係を思い出した。多喜二氏は蟹工船の労使関係を問題にしたが、わたしが経験した

蟹工船とはそこが大きく違う。

勿論、時代背景が違うのはいうまでもない。

わたしが経験した、蟹工船の労使関係や仲間意識は、オカとは次元が違う素晴らしい人間関係で

成り立っていたのである。

あの人間関係は、あの地獄の真っただ中だからこそ成り立ったのだろう。

では、どのようなことがあったのかと謂われれば、ささいなことしか思い浮かばない。

そのありふれた心づかいが、ありえないほどの浸透力を持っていたのである。

毎日、肉体も精神もぎりぎりで働いていたわたしにとって、人間関係は最高級の潤滑油

となった。

あのやさしさ、いたわり、心づかい。荒いことばだが芯のやわらかさ、温和な態度は

切り上げまで続いた。

そしてそれらが視線の先々まで溢れ出ていたのである。

嫌味がまったくない心づかいであった。

わたしは、あの過酷な蟹工船を、一日も休まずに二航海も勤めることができた。

その大きな要因は、この人間関係に交わり生かされていたからであると思っている。

あれから半世紀。

あのような心づかいに、わたしは今まで一度も触れたことなどなかった。


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                                                                                                                                ペールで覆われた絵画

まさしく 蟹工船だ!

蟹工船の労働時間は、朝四時半に起こされ朝飯前の仕事をする。

朝食後、四五分の休憩を取り仕事再開となる。

夜は毎晩、夜業だ。仕事終了は九時過ぎであった。

それからが自分の時間である。短い自由時間の始まりだ。

わたしは、その短い自由時間を、最大限睡眠時間に充てていた。

だから寝る時間は遅くても、十時三十分頃であった。

とにかく早く寝れば切り上げも早く来るとの思いなのである。

まるで子供が正月を待ち望んでいるのと、たいして変わらない。

そんな蟹工船の仕事は、決して過酷な仕事ばかりではなかった。

もし毎日、過酷な仕事であれば心身は二ヵ月も持たないだろう

ただ、勤務時間が長いのと、休みが無いのが一番きつい。

このような勤務体制はオカでもまれにあるだろう。

勿論、この条件だけでもきついことには変わりない。

だが、オカにいる限り家に帰れる。布団に寝られる。家族、友人にも会える。

娯楽も楽しめる。美味しいものがいつでも食べられるのである。

また辛いこともあれば、面白く愉快なこともあるだろう。

オカにいれば当たり前のことだ。

だがこの当たり前の出来事が、ある日突然、プッンと途絶えてしまうのである。

蟹工船の一番の辛さは、何といってもオカとの別離だ。

船で何が起きても、全部自分で耐えて始末していかなければならない。

一番厄介なのは、自分の始末であった。

倒れずに仕事を続けるには、どうしたらよいかなのである。

ある人は、「四か月でないか…」と、のたまうのである。

だが、わたしはこの状況に慣れたと言っている乗組員を、誰一人として知らない。

これは、経験した者でなければ、なかなか理解しがたいものだ。

何事も始まりは、終わりに近づく良い知らせだ。

蟹工船も、中身が違うがその言葉だけは同じである。

ただ、終わりに向けて進む過程が、そこで働く男達の想像を絶するだけなのだ。

では、働くとはどういうことなのか。

働くは「人遍」に「動」と書く。

漢字をそのまま読み込むと、働くは人が動いて「働く」となる。

これをそのまま実行しただけでは、その人はオカでも必要とされないだろう。

働くとは「人が人として動く」ことをいうそうだ。

六根を奮い立たせるのである。

(感覚と認識の基礎となる眼・耳・鼻・舌・身・意を六根という。)

だから、働くは根本的に重労働であるという人がいる。

わたしのことばに、敏感な動きとすぐれた触覚を持つ蟻と、歩みが遅くとも確かな一歩を進める

亀が働きを説いた短い句がある。

その句が「働くは 蟻の如く 進は 亀の如し」だ。

蟻のように動きと触覚(六根)を敏感にし、進むときは、周りをよく把握し、ゆっくりでも納得の

いく一歩を踏む。

こんなことなど、できはしないという人もいる。

がしかし、大概の人は無意識に行っているので気づかないのである。

人が人として動く、その集まりを世間といい、その集団を社会という。

このことも、多くの人は無意識におこなっているといわれている。

どこにいても、人が人として動かなければすべてが成り立たない。

蟹工船も、お互い生存していくうえでの、諸々の不自由な制約を甘んじて受けながら、人が人として

動いているので成り立っていたのであった。

これは、操業するにあたって大変重要なことなのである。

どん底のあの苦しみの中にあっても人としての常識、道徳や躾などが成り立っていた。

勿論、完璧には程遠いが、要所々々の常識は少しも揺らぐものではなかった。

木樽のタガ締めと同じである。

人間形成のタガに、常識というクサビを打って締めていく。

その証拠に、四ヵ月もの間、男だけの世界で大きなもめごともなく無事下船できた。

これが、人が人として動いていた確固たる証であった。

だからあの苦の中にあっても、人間関係は円滑にまわっていたのである。

船乗りと聞くと何やら荒くれ者のように感じられるが、それは違う。

心根の優しい男集団なのである。

乗組員全員が、共通の目標を持って人として動いている。

その目標に立ち向かってくるすべての「苦」を、お互い助けあって生き抜いていく。

船には、このような暗黙の了解が存在している。

蟹工船一年目は、経験がないので、ただただ、我慢と辛抱に耐えるだけであった。

耐えることに、ただひたすら耐えるのである。これも初めての経験であった。

二十歳になったばかりの青年には、かなり苦痛であったろうと思う。

二年目は、一年目の経験を踏まえて、強固で微動だしない覚悟を、自分にしっかり

持たせたのである。

そうでもしなければ、とてもとても勤め上げることなどできはしない。

眼前に現れた出来事に合わせた、柳腰の覚悟である。勿論、真は微動だしない。

二年目にわたしは、もう一つ大事な心構えを設けたのである。

それが「客観の神」である。もう一人のわたしの設定だ。

わたしを不休で第三者の立場から守護し導いてくれる神。知実守護神である。

わたしのわがままを、打破してくれる神なのだ。

今こころに思っていることが正当なのかどうか、客観の神に問うのである。

この行為はオカに上がっても実行していた。

蟹工船は、切り上げまで一度も港に帰港も寄港もしない。

ずうっと海の上なのだ。

これが二つの地獄の元凶だ。まさしく、蟹工船だ!

船がわれわれに与えてくれたのは、そればかりではない。衣食住も与えてくれた。

ただ、衣は鉛の衣服のことで、疲労を意味する。食住はあとでお話ししよう。

毎日、鉛の衣服を重ね着していくので、身体が日に日に重くなる。

歩く足音さえ、重く聞こえてくる。

その疲労感を、毎日体験しながら、一日を終えるのである。

これが切り上げまで続くのだ。

蓄積疲労を、もっとも知ることになるのは、入浴後であった。

過労が、身体の奥から堰を切ったように、塊となって流れでてくる。

まるで心身を押しつぶすかのようであった。

だからわたしの入浴は、十日か十四日に一回であった。

カラダがかゆくて、かゆくて我慢できなくなると “決死風呂 ”ときめて風呂場へ向かう。

入浴後、ベッドに横になると身体が沈む…、ではなく、ベッドにめり込んでいくのがわかった。

ここまではさしたる問題ではない。

問題は、翌朝であった。

過労が身体を覆いつくしている。なので、身体が動かない。眼が開かない。起きられない。

…休みたい…。…休みたい…。…休みたい…。…休みたい…。もう…ダメだ…。

入浴の翌朝は、必ず、辛い、つらい、ツライ、TURAI・決断を迫られる。

毎朝、99%の休みたい気持ちを振り切って起きていた。

入浴の翌朝は、99.999999%の休みたい気持ちを、100%の出勤体制に立ち上げる。

それも数秒の内におこなわないと、仕事に出遅れる。

わたしにとって、仕事を休むということは敗北のなにものでもなかった。

この決断を「決意の再起」という。

文章ではいとも簡単に書くことができるが、この決意は想像を絶する決起の表れであった。

その日の朝は起きるだけで、一日分の体力精神力を使い果たすのである。

作業服を着て長靴を履いてようやく立ち上がる。

鉛の衣服のすれる重い音が身体中にひびく。

立ち上げるとその重さに耐えかねて、体全体が数センチ沈んだような気がしたものだ。

わたしは毎日、過酷重重重労働と垂直直下深深深睡魔との大決戦をしていたのである。

その当時、わたしは「神カモウナ、仏ホットケ…」で信仰心など微塵もなかった。

だが、どうやらわたしの心身にも、神仏がおられたようなのだ。

数え切れぬほど、窮地に追い込まれたわたしは、何度も神仏に手を合わせた。

疲れがたまってくると、夢なのか幻想なのかわからないが、頭に浮かんでくるのである。

限界峠を超えていく、我慢の背中を遠くから見ながら必死に願うのであった。

「明日も 倒れないように…」

厳密にいうと、峠超えはしていないのである。

頂上が見えているのに、歩けど歩けど、いっこうに近付いてこないのだ。

今日も我慢がぶつぶついいながら、とぼとぼと頂上に向かって歩いていくのが見える。

「あの峠を超えたら楽になる…、もう少しの辛抱だ…」といいながら…。

そのように強く思わなければ、弱音にスキをみせてしまう。

そうなると、あっという間に、弱音にすべてを支配されるのだ。

そうしてこのようになる。

「朝、倒れているのではないか? いや!死んでいるかも…。もういい…。」

ここがとても大事な分岐点となるのだ。私の場合、金より大切なものがあった。

それは、休んで敗北の賞をもらうのか。やり遂げて、輝かしい経験を心に刻むのかであった。

自分の覚悟は、何を求めて最終章まで来たのかということである。

蟹工船の労働を、苦労働という。

苦労、苦難、苦悩、苦痛の苦の労働だから、苦労働なのである。

苦がこれだけ集まっても、その隙間から垣間見える、「終・END」 は光り輝いていた。

光り輝いている「終」こそ、絶対やってくる峠超え、切上げなのである。

だが、本当のところ、蟹工船の苦労働は、苦は苦でも数字の「九」である。

九労働という。数字の九のつぎは、ゼロだ。

ゼロを始まりだという人もいるが、ここでは、何もかも失ってしまうことを意味する。

九を超えると、命さへも危うくなってくるのだ。

今、自分の心身が、限界であることを、九労働はいつも教えている。

それを超えると、身体に支障が起きるのは、間違いのない事実であった。

自分を、ゼロへとおとしめようとする要因は、蟹工船の金銭感覚にあるのだ。



 


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記憶をたどり書き続ける ノンフィクション物語

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