随筆 限界峠を超えて

カムチャツカの真実 7

蟹工船 協宝丸の世界

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カフラン沖

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カムチャツカ  蟹工船

1970 「協宝丸」乗船

1971 「晴風丸」乗船

カムチャツカ漁場航路図

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記憶をたどり書き続ける ノンフィクション物語

冷蔵庫のマツとボイラー焚きのアブサン

製造部門のトップに製造頭(かしら)といわれる人物がいる。われわれの頭だ。

蟹工船歴四十年以上で一番の年配者である。勿論、漁労部門にもいる。

頭の仕事は、社員との製造計画の遂行と製造管理の徹底である。

それと乗組員の健康管理。

まだまだ、われわれが知らないだけで頭の仕事はあるだろう。

そして、毎朝の起床号令であった。

朝四時過ぎころ部屋をノックし、声掛けをしてくれる人が製造頭であった。

話しかけるような声で、ゴー・ヘイー!と製造部の部屋を起こして歩く。

頭の気性がそのまま出ている号令であった。

大きな声ではなく普通の声で話すので、朝から気分を害することなど

一度もなかった。おじいちゃんの声だ。

そんな小声でもちゃんと起きられたのである。

体が疲労を幾重にも重ね着し限界の外にあっても、意識は何とか内にあった。

ゴー・ヘイーは、何かの船用語が簡素化された、言葉なのだろう。

行くぞ!の意味合いの言葉ではないのかな。起きれ!ではないと思う。

工場が稼働して一ヶ月。この頃になると疲れもたまってくる。

川崎船の吊り降ろすあの大音響さえわからないのだ。

頭のゴー・ヘイーも意識の遠くで聞こえている。

朝起きるのに自信がない。

そうすると、どうするかというと、着の身着のままで床に就くのである。

仕事でゴム河童をしているので、ズボンの汚れは少ない。

なのでズボンをはいたまま寝る。

白衣と帽子は枕もとに一緒に置いておくのである。

長靴はすぐに履いていけるように、いつも同じ場所に置く。

この体制が、切り上げまで続くのである。

勿論、こんなことをするのは新兵だけである。

これからは、あの大音響に起こされることなどない。

起こされないのではなく、気づかないのである。

疲れて、疲れて、頭を枕につければ、すぐ垂直に眠りに陥るのだ。

と言いたいのだが、そうはいかない。

わたしには毎夜、寝る前にやらなければならない儀式があった。

目をつぶると、頭の闇のなかのずっと上の方に、一センチほどの大きさのわたしが、

寝ている姿で現れるのである。それも、仰向けになっている姿だ。

体の背中側が闇の中に見える。

そのわたしが、急にその位置から、物凄いスピードで闇に落ちていく。

あっというまに小さくなって落ちていくのだ。

一センチの物体が、0・1秒の速さで、コンマ何ミリほどの小ささになるのであった。

わたしは、心のなかで「このままでは、死ぬ~!」と叫びながら無理やり目を開ける。

この儀式を毎夜、二~三回行い眠りに入っていった。

深い闇のなかに、物凄いスピードで落ちていくこの恐怖が解るかなぁ。

限度を超えた疲労感が、この光景をみせているのであろうか。

それとも、折れかかっている精神が、苦し紛れに描きだしている幻想であろうか。

この現象を、わたしはカムチャツカ・ショックと呼んでいた。

今日から毎朝、四時半起きだ。ゴー・ヘイー!の声が聞こえた。

五時から仕事開始である。支給された作業服を着て帽子をかぶり初出勤だ。

IZA! 冷蔵庫へ。厳密に言えば冷凍庫である。

冷蔵庫担当責任者、函館戸井出身、松本さんがお待ちかねだ。

松本さんは小柄の人で、体格ががっしりしていてひげの濃い坊主頭の人であった。

少し照れ屋で、函館弁が似合っていた。

年齢はわたしよりも一つぐらい年上でなかったか。

職場で自己紹介となった。

「松本です。マツって呼んでけれ。」

「土屋です。よろしく。」

「大嶋です。よろしく。」以上で自己紹介終了である。

その後、マツが関係場所を案内してくれた。

まずは冷凍庫。わたしには見慣れた冷凍庫そのものであった。

次に、違う冷凍庫の扉を開けた。そこは、想像を絶する巨大空間で、

その広さに圧倒された。

その冷凍庫の中に入るには、壁についている備え梯子を下りていくのである。

その横に貨物用エレベーターが、甲板から下の階まで貫いていた。

冷凍庫は四階の構造となっている。

各階の横幅は二十~二五mほどではなかったか。

奥行きは十~一五m位はあったろう。

その奥行きの向こう側が、これも十m位の長さで、船底から甲板まで

仕切りなしの巨大冷凍庫となっていた。

その冷凍庫の正面は、なんと船の表(船首)なのだ。

ここは船の一番先である。舳先(へさき)のカーブを内側から見ているのである。

「いや~!凄く、デカイですね。ここに、何がはいるのですか?」

わたしはその巨大空間に圧倒されながら、マツに聞いた。

これだけの空間に、いったい何を保管するというのか?

「カニだ。甲羅付きのボイルタラバだ。獲り過ぎて処理できねえ蟹を、

ここにためておくンだ。」

マツの言葉が誇らしげに冷凍庫のなかで白く輝いていた。

「あっ。そンだ。土屋さんは、ウインチの蔵田さんを知っているンだってなぁ。」

「はい。蔵田さんとは、札幌で…。」

「土屋さん。札幌の、日魯さいたンだって。なんで、こったらどこさ、来るべなぁ。」

まったくです、といいたかかったが寒すぎて言うのが大儀であった。

それからまもなく冷凍庫から出て、暖を取るボイラー室に連れていってくれた。

「冷凍庫から出たら、ここで、温まるンだ。」

そこにはボイラー焚きのオジサンが一人いた。

いつも、丹前(どてら)を着てボイラーを見ているという。

かなりの酒好きで一番の好物の酒がアブサンという酒だそうだ。

付いたあだ名が「丹前のアブサン」という。

本当の名前は忘れてしまった。まさか、アブサンと呼んでいたわけではないだろう。

日ソ漁業協定で決められている漁獲品種は、タラバのカニ缶詰のみである。

それ以外の蟹は一グラムとて認められていない。

タラバ蟹の甲羅付き冷凍品などは、百%協定違反なのである。

だが、そこが日本人の日本人たる所以である。

ニチロの船団だけが日本人ではない。後の四船団も全員日本人だ。

ということは…。

冷蔵庫の仕事は、各部署の作業テーブルから流れてくる蟹の身を、

所定の場所へ行って集めてくる。

それを冷蔵庫の作業室で、骨や異物を取り除き正肉だけにして、

冷凍パンに詰め凍結する。

冷凍になった正肉を、冷凍パンから脱パンして冷凍室で保管する。

一定の数がたまったら、貨物用エレベーターで作業室に上げて、グ

レース(酸化防止剤)掛けをする。そしてまた、冷凍庫へ戻すのである。

この蟹は、カニ入り冷凍商品の原料となるのである。

切り上げまで続く作業である。冷凍製品も相当数できあがる。

ロシケの工場ならこんな仕事などない。そのまま廃棄である。

さすが日本人である。そんな日本人も、床に落ちた物、流れて行く物には手を出さない。

だが、作業テーブルの上のロスは認めるわけがないのである。

テーブルの横に樋を作り集めて、製品扱いとして処理させるのである。

ここカムチャツカまできて、何故に投げ物を作る必要があるのか。

ここカムチャツカまできて、何故に休まなければならないのだ。

投げるものは、骨の髄までしゃぶり投げる。

活用できるものも、骨の髄まで活用する。

これ日本人のもったいない精神。転んでもただで起きない。

という日本人独特の目ざとさなのかもしれない。

日ソ漁業協定で漁獲してはいけない蟹は、メス蟹と規格外の小さな蟹、

通称アンコ蟹である。

これは海にリリースしなければならないのである。

がしかし、もったいない精神の持ち主である日本人が、ここまで来て

リリースなどするわけがない。

網にかかった蟹と名の付く蟹は、アンコ蟹であれ、メス蟹であれ骨の

髄までいただく。

では、骨の髄までの食し方を説明します。

アンコもメスもまず脱甲する。脚は小さく細いので裁割できない。

そんな時には、脚の肉をしぼり出すローラに掛ける。

残った甲羅を、甲羅掘削機にかけぐちゃぐちゃにして、

母なる海にかえすのである。

脱甲してそのまま甲羅を海に投げたら、甲羅の流れが母船から

ず~っと続き、ロスケの監督官に見つかってしまう。

母なる海は寛大である。

そんな甲羅やら、残飯、排水、糞尿などを一言の文句も言わず

お引き受けくださるのだ。

母は何と素晴らしい自浄能力をお持ちなのでありましょうか。


巨大冷凍庫








工場が全休になることなど一日たりともなかった。勿論、半休もない。

ということは、川崎船が出漁出来ない時化などないということだ。

ちょっと違う。川崎船はどんな時化でも漁に出されるということだ。

出漁できないということは命にかかわる大時化の時だけである。

そんな大時化が操業中に一回はある。

さすがにその時は川崎船が下りない。休みだ。

その時のために、冷凍庫に備蓄しておいた冷凍タラバを、

前の晩から解凍して缶詰に製造する。

工場を休みにするわけがない。

この冷凍タラバ蟹は、大漁で製造が追いつかない場合に作られる。

生処理の脱甲の状態で蟹が大量に余る。タラバを生の状態で置いておけない。

ボイルし冷凍庫へ下げ、備蓄するのである。

勿論、製造できないボイルタラバがあれば、それも備蓄カニとなる。

このタラバ蟹の備蓄山盛り状態をつくるのが、冷蔵庫関係者の本来の

仕事なのである。

会社としては、缶詰以外に鮮度抜群の殻付き冷凍品も欲しいのだ。

水揚げ数量にかかわらず、乗組員全員のケツを叩き備蓄する。

これは会社のベコ(余禄)である。何回も仲積船で函館港に運ばれる。

仲積船というのは、函館と母船との間の積み荷役船だ。

函館からは、網関係や製造に関する物、食糧品、医療品、雑貨品、乗組員宛の荷物、

手紙などである。

荷物や手紙が届くと、本当に嬉しいものだ。

一回目の航海の時に、親父から手紙きた。あの時は嬉しかった。

親父は達筆なので、読むのに大変だったのを今でも覚えている。

母船の製品倉庫は、表側・船首の方にある。

製造が進むと缶詰ができてくる。倉庫に缶詰がたまってくると表が重くなる。

表が重くなると、艫(とも)後ろ側がもちあがるのである。

艫がもちあがると、スクリューが顔を出す。そうなってくると航行に支障がおきる。

母船を元に戻すには、製品を船から排出しなければならない。

だからといって、製品を海に捨てるわけにはいかない。

そこで仲積船の登場となるのである。仲積船に製品を移し替えるのだ。

その時に、冷凍庫のタラバ蟹も一緒に移すのである。

仲積船に移す前日に、冷凍タラバを決められたキロ数でナイロン袋に

詰めておくのである。

移す荷物が多いときは、仲積船二隻でおこなう。あの巨大冷凍庫のタラバが

空になるのである。

全量仲積船行となるのだ。これは我々の大事な仕事のひとつなのであった。

これを、水産庁の監督官が寝ているときに行うのである。

午前0時から作業が開始される。川崎船が降ろされるずっと前である。

缶詰だけなら堂々と出来るのだが、協定違反の冷凍タラバがあるために

夜明け前の仕事となる。

これが終わると、冷凍庫がタラバでいっぱいになるまで忙しい。

たまったら、また仲積船行だ。切り上げまでこの繰り返しなのである。

そして、切り上げの時には、必ず冷凍庫を殻付きタラバで満載にする。

マツの誇らしげな顔がうかぶ。

仲積船の作業が終了後、小一時間の休憩を挟んで、またいつもどおり仕事だ。

今日一日、睡魔大王さまと勝ち目のない戦いをしなければならないのである。

小便が、横に跳ぶ!

母船のご飯はとても良かったと思う。肉料理も多かった。筋肉だけど。

筋肉が「なぜにお前の意見など聞かなければならないのだ。オレは俺だ!」

といわんばかりに最後の最後まで、自分の主張を頑として曲げなかった。

立派でした。

筋金入りでした。でも味付けはわたしには合っていた。

食事はおかず以外おかわり自由である。先輩からよくおかずをいただいた。

毎日必ず夜業がある。

夜業が終わったらインスタントラーメンを持って仲間と食堂へ行く。

食堂には大きなゴマ付おにぎりと漬物が置いてあった。

電気コンロでインスタントラーメンを作り、いつも仲間とおにぎりを

一個半ずつ食べていた。あの味も忘れないで今でも覚えている。

舌の記憶は素晴らしい。毎日よく食べられたものだ。若かったンだなぁ。

その仲間と何を話しながら夜食を食べていたのだろう。

わたしはその頃、どんなことに興味をもっていたのだろうか。全然記憶にない。

若い男が盛り上がる話しなど、何にもなかったのではないのか。

ただ黙々と食べていたのかもしれない。その頃に戻って、仲間との話しを

聞けるものなら聞いてみたいものだ。

何といってもわれわれは毎日、食堂でご飯が食べられる。

ありがたいものだ。だが川崎船の乗組員は違う。

貴重人種たちは、朝と昼のご飯を川崎船で食べるのだ。

常夏の海なら毎日がバカンスだ。だがここは吹雪のカムチャツカ沖。

観光船でもなければヨットでもない。

川崎船には機関室があるが、でもそこにはドアがない。機関長一人入れるだけ。

艫(とも)は作業場である。飯時間になるとそこに車座になって食べるという。

時化のときは、どのようにして食べていたのだろうか。

交代で母船に上がり食べていたのかな。

何であれ、川崎船で食べるのは大変なことだ。

風が強い日は、誰かが表(船首)で小便をすれば風で横に跳ぶ。

風向きによってはそれがそのまま、艫で飯を食べているみんなにふりかかるという。

小便がかかったからといって海に投げるわけにはいかない。

それでも食べなければ、疲労の重さに潰されてしまう。

わたしが夜中0時ごろ小便に起きると、川崎船の若いお兄さんが酔っぱらって、

広場の通路で小便をしていた。アンティーク色の顔に笑みを浮かべながら。

それから二時間三十分経ったら、カムチャツカの海に降ろされるのだ。

木の葉のように舞う船上で、タラバを網から外しきれいにモッコに並べて

母船まで運ぶ。腰高の甲板壁にロープ一本張られているだけの甲板でだ。

時化の時には波が甲板の下で行ったり来たりする。

そんな状況でも小便のフリカケ飯を喰わなければならない。

金のためといえばそれまでである。

でも、このカムチャツカ貴重人種の心意気のなかに、会社のためという気持ちがある。

彼らの行動を見ているとそれがよく分かる。

何故なら、彼らの顔付きには日魯の川崎船乗りというほまれが、

滲み出ているように感じられるのだ。

当時、彼らを凄い人たちだなと思っていた。

今、この機会に思い出してみても、彼らには畏敬の念さえ覚える。

その彼らの仕事は、網あげカニ外しが専門である。

では、その網を差すのを誰がするのか。

網を差す仕掛けることを投網という。

その作業は独航船がする。

独航船は一船団に五隻配属されていたと思う。

その内の一隻が調査船となりあとは投網専門である。

投網の独航船は、あてがわれた漁区に網を差していく。

調査船は母船の先回りをし、独航船が仕掛けた網を一反分あげてみる。

その網に何匹タラバがかかっているか調べて母船に知らせる。

予想外に少ない場合は、違う漁区で調査を行いその結果をまた母船に連絡をする。

その報告を受けて工場長が次の漁区を決定するのである。

そして船長に報告される。

今の漁区から次の漁区が近い場合移動は夜でもよい。

翌朝の川崎船を下す時間に間に会えばよいのである。

もし、川崎船が下ろせないほどの大時化がきたら、母船でも棚から

物が落ちてくるほど揺れる。

そんな大時化の時、独航船はどうしているのか。入港できる港もなく

避難する入江もない。

母船の大揺れのなかで、独航船の事が頭をよぎった。

その独航船軍団の切り上げは、母船より五日くらい早い。

ある日の朝、部屋の誰かが、

「今日、独航船の切り上げだな…。」と言われた。

はじめてのわたしには何のことなのかわからなかった。

いつものように仕事をしていたら、工場に船内放送が流れた。

「〇〇時になったら、全員甲板に上がってください。」

その日は晴で波も風もない。穏やかな日であった。

時間が来たので甲板に向かった。

甲板ハッチの上から霧笛に交じって演歌が聞こえてきた。

甲板に出た。一段と霧笛も演歌も音が大きくなった。

ああっ、太陽がまぶしい。

独航船が大漁旗をいっぱい掲げ、霧笛を鳴らし、演歌をかけ、

協宝丸の周りを回っていた。

独航船軍団五隻集合! 

独航船の乗組員が甲板にあがり、母船に手を振りこれまでの労をねぎらっている。

各独航船から大喝采が起こる。

なかには裸になり、大漁旗で前をチラチラ隠しながら、ストリップをする者もいた。

勿論、母船も乗組員全員が甲板にあがり、霧笛を聞きながら独航船に手を振る。

感無量だ。胸がいっぱいになる。涙が流れる。ほんとうに嬉しい。帰れる…、

ではない。あと少しで地獄が終わる…であった。

裁割 (さいかつ)

裁割の男たちも、貴重人種だ。

四月の西カムチャツカはみぞれの吹雪が多い。

あの吹きすさぶ甲板で、早朝から防寒着の上にゴム河童を着て働く。

裁割は並の肉体、精神では勤まらない。

甲板仕事というだけで過酷な仕事と理解できる。

でも、同じ甲板仕事の川崎船からみたら、部屋で内職するようなものだろう。

何も裁割が楽な仕事だといっているのではない。

川崎船が過酷で異状な危険すぎる仕事なのだ。

裁割の男たちも、やがて潮焼けで顔がアンティーク色になる。

もしわたしが、蟹工船のポスター写真を依頼されたら。

川崎船の網あげと裁割の仕事を乗せる。

この二枚は蟹工船を一番強く印象つける写真になる。

川崎船は、時化のなかの操業風景だ。

まるで神がその場に降臨し、彼らを守護しているかのような神がかった光景である。

あれは、漁師でも船乗りでもない、神が成し遂げさせた業。神業であろう。

裁割は、夜の作業風景がいい。

裁割の男たちがライトに照らされ、闇に浮かんでいる光景だ。

全員、ゴム河童を着て裁割テーブルを取り囲んでいる。

そのゴム河童が、吹雪とボイル蒸気で濡れて黒光りしている。

その河童の肩や背中あたりから、湯気が立ちのぼる。

この写真二枚で、蟹工船の壮絶たる仕事が表現される。

きっと、良いポスターに仕上がるだろう。

わたしは、ボイル釜の蒸気がモウモウとたちこめている甲板で、

裁割の男たちの働く姿を今でも鮮明に覚えている。

男たちのゴム河童から、体温の熱で温められた水分が湯気となってたちあがる。

そんな光景を見ていると、仕事の厳しさが眼に見えない圧力となって、

グイグイ押迫ってくるのがわかる。

裁割の仕事は、甲羅付きボイルカニ脚の肉部位と関節を包丁で分割するのである。

それだけなのに、ゴム河童から湯気が立ちあがるほど体が熱くなり汗をかくのだ。

裁割ほど神経をすり減らす仕事はない。

包丁が正確に振り下ろされ、そして速くなくてはならない。

正確に裁割されなければ、その部位は製品にならずソボロの原料になるだけである。

かといって、裁割が遅ければ、その先のすべての仕事に支障がでるのであった。

わたしの記憶のなかの裁割の仕事風景を、五十年振りによみがえらせてみよう。

今、ボイルが終了したタラバの脚が、モッコごと海中で洗浄冷却され裁割テーブルの

上に開けられた。

男たちがテーブルを囲んでタラバの山を見上げている。山の高さは二m以上あるだろう。

誰ともなく裁割包丁の振り下ろす音が聞こえてきた。すぐに全員が振り下ろしはじめる。

やがて、包丁の音はばらつきがなくなり、一定の音の帯となり聞こえる。

「早くせェ! 次のモッコが、くるどー!」

沢田の頭の叱咤が飛ぶ。だんだんと音の帯が速くまわる。しばらくすると、音が消えた。

テーブルのカニ脚の山が裁割されたのだ。裁割された部位を所定のカゴに入れに行く。

それぞれの部位が一定量たまったなら、肉出し作業に移るのである。

大きな爪は沢田の頭のところに集められる。

頭が爪を数え終えたなら、蔵田氏のところに数の報告に行く。

蔵田氏は、爪数を報告書に記帳し社員に提出する。

この爪の総数が本日の漁獲数となるのだ。

蔵田氏が作る宝船の左爪が、この時に見つかるのである。

その左の爪は、一万匹に一個という確率だといわれている。

この確率の低さが、宝船を貴重価値にするのであった。

宝船に、左の爪が何個使われているかによって、価値が変わってくる。

日魯の社長が、贈り物に使いたいのがよく理解できるというものだ。

蔵田氏は、毎日、ウインチ席で宝船を作っていた。

ウインチレバー操作の合間を見ながらの作業である。

出来上がった作品は工場長が取りに来ていた。社長の喜ぶ顔が目に浮かぶのだろう。

満面の笑みで宝船をもらい受けるのであった。

さて、裁割されたカニ脚は、部位ごとに手カゴに仕分けされている。次は、

肉出し作業である。

殻付きカニ脚から、肉を取り出すのである。

甲羅の太い方を下に向けて振り下ろし途中で引くのである。

その反動で中のカニ肉が飛び出てくる。その要領で棒肉、ナンバンと肉出しをする。

ラッキョは裁割の時に、関節を片方切り落とし、ラッキョ部分をボールの縁に

ぶっつけて、肉を取り出すのである。

爪は、上から軽くたたき爪を割り甲羅を取る。

このときに、爪肉にキズをつけないようにする。爪は貴重だ。

次に肩肉。肩肉はゴロっとした肉の固まりだ。

剪定はさみのようなもので、甲羅を回しながら切って出すのである。

ボイルしたてのカニ脚はどこの部位も旨い。

特に肩肉は、丸ごと肉なので喰い応えがあって、わたしは一番好きだ。

わたしの記憶の奥で、今も裁割包丁の音が帯となって流れている。

夜の闇に鈍く光っている、裁割貴重人種のゴム河童から、

熱気の湯気がたちのぼっていた…。

「早くせエー! つぎのモッコが来るド!」

沢田の頭の叱咤が飛ぶ…。

裁割




蟹工船 協宝丸の世界

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