随筆 限界峠を超えて

カムチャツカの真実 5

蟹工船 協宝丸の世界

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カフラン沖





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カムチャツカ  蟹工船

1970 「協宝丸」乗船

1971 「晴風丸」乗船







カムチャツカ漁場航路図

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記憶をたどり書き続ける ノンフィクション物語




コウカイ


一九七〇年 昭和四五年 春 四月。

函館山は快晴の海に浮かんでいた。

頂上付近から残雪が色をなくし、その存在を薄っすらと現していた。

まるで次の季節を拒むかのように山肌にはりついている。

外海も穏やかな顔をみせていた。

今まだ弱い春の陽は、海をコバルト色に輝かせるに至っていなかった。

鉛色に近い湾内の海に、母船が揺れることなく出航を待っている。

「協宝丸は間もなく出航します。関係者以外は下船してください。」

船内に出航のアナウンスが流れた。

ほどなく、蛍の光とドラの音が重なり合って母船全体が別れの演出をした。

スピーカーから蛍の光が流れ、ドラは船関係者が叩きながら甲板を歩いている。

わたしはドラと蛍の光は、連絡船だけではないのだなと思いながらぼんやり聞いていた。

漁船の別れは連絡船の別れとは違い、さっぱり味の別れであった。

別れの紙テープも、だんだんと離れていく岸壁もないのだ。

遠くの岸壁に、見送りの人たちが、小さなかたまりとなって見えていた。

何度目かの出航アナウンスがまた流れた。

やがて、母船がゴー・スタート(スクリューを回す)を開始した。

巨大な協宝丸が、スクリューの回転で震えている。

大音響を満載にしながらゆっくりと動き出した。と同時に、

海底に長い間沈殿していた歴史の堆積物が、今だといわんばかりに海面に舞い上がってきた。

それはまるで、海が動く抽象絵画をなぐり描きしたような光景であった。

その絵もやがて、母船に引きずられ波とまじりあっていった。

何やら物事の消えゆく儚さを、一部始終上空から眺めているようでもあった。

やがて、母船もゆっくりだがスピードに乗ってきた。

間もなく母船は湾内を出た。大きな鴎が飛び交う。

外海に出てから船の速度が速まったように感じられた。

そのせいなのか函館山が段々と小さくなっていく。

停泊していた時には思いもしなかったが、動き出して改めて思った。

ああ、俺、船に乗ったンだなぁ、と。

いよいよ、出航だ!協宝丸よ! 蟹工船よ! カムチャツカよ!

未知の扉を自ら押し開いた、二十歳の若者よ!

といえるほど、やる気満々のわたしではなかった。

船に乗って何処か旅行にでも出かける気分であった。

わたしは蔵田氏とデッキで冷たい沖風を受けていた。

どこを見るわけでもなく、小さくなっていく函館山の光景を目の端においていた。

外海から函館山を見ていると、函館山は夜景を見るためにある山なのだなぁと、

つくづく思った。

山の位置といい、高さといい、何と都合よくできたものかと感心する。

オカに目をやると、海から見えるその風景はその土地々の正面の顔を現していた。

また、鴎が飛んでいく。デカイ!

「船って、速いンだね。」

わたしは船の速さに驚きながら、蔵田氏に話しかけた。

「いや~、甲板から下を見ると、速ぐみえるンだ…。

   協宝丸は、なんも、速ぐね。ボロ船だもの…。」

この意味が二航海目で理解できた。

蔵田氏はとても寡黙な男であった。口数が少なく、うなずくように返事をする。

素晴らしい気配りと優しい心遣いの持ち主であった。

嘘偽りのない裏表のない行為が、そのまま言動になっている人である。

その人柄が、二十歳の若造にも理解できた。ほんとうに善い人だと思う。

このような人に、そう簡単には出遭えない。

彼はまさしくカムチャツカ・ジェントルマンであった。

彼は、二つの地獄から得た教訓として、人は窮地に陥れば陥るほど、普通の人で

いなければいけない重要性を教えてくれた。

これが、カムチャツカの苦難・苦悩・苦痛を背負わぬ、一番の生き方なのだと…。

蔵田氏が、蟹工船から取得したこの生き方は、オカで身につけることなど到底無理であろう。

「…明日から、仕事だ…。」

蔵田氏が、沖を見ながらボソッと言った。

「えっ!仕事ですか?」

「そうだ…。」

「仕事は、漁場に着いてからでないの。」

「漁場に着くまで、機械整備や工場を作るンだ。」

「工場?」

「そうだ。甲板と甲板の下になぁ。その為に大工が乗っている。」

「・・・・」

「漁場に着く前の日までに、終わらせねぇとなぁ…。」

蔵田氏は蒸気ウインチの名手である。

この北洋の世界では名の通った男だと聞いていた。

ウインチレバーを握る彼の顔は、普段見ることのない真剣な顔つきであった。

そのレバーの手さばきは、素人の私が見ても理解できる。

名手ならではのあざやかな技であった。

その技術で多くの命が護られていることを、わたしは後で知ることとなる。

冷たい沖風に吹かれていたわたしは、明日から仕事なんだぁ、と心で呟きながら

海を見ていた。

そのわたしの少し後ろで、デッキの手すりに腕を置き、その腕に頭をもたれている

男があった。

その男は鼻をすすり泣いているように見えた。

蔵田氏がその男をアゴでしゃくり、わたしに言った。

「何で、泣いてるが、わがりますが?」

「・・船の別れが…悲しいからですか…」

わたしは小声で言った。

ドラの音と蛍の光に象徴される、ごく一般的な船の悲しい別れを素直に答えた。

「違う…。 コウカイだよ。」

「・・・・。」

「函館山が段々小さグなると、後悔するンだ。乗らねばいがった。てね…。」

わたしは経験がないから不安もないといった。

実のところ蔵田氏が同室と知った時の安堵感が、自分では知ることのできない不安を

如実に表していた。

勿論、後ろですすり泣く声にも、理解できない不安材料としてこころに刻まれる

こととなった。

「おれも、毎年、コウカイ…する…、泣かねけど…。

     乗らねで済むなら、乗らねぇ方が…いい…。」

蔵田氏は沖から足元に目線を落としてつづけた。

「ここにいるヤツらは、みんな、そう、思っている…。土屋さんも、来年、

    乗るンなら…わがる…。」

波と風の音でかき消されそうなため息まじりの声で、蔵田氏が胸の内を語った。

苦難・苦悩・苦痛の蟹工船を…。

出航したその晩に、蔵田氏のところに工場長がやってきた。

孟宗竹を二つに割った長さ三十㎝の竹三本と、ニス仕上げのラワン材の長さ三〇㎝板

二枚を抱えて。

「蔵田さん。社長から預かりモノ持ってきたよ。」

と言いながら蔵田氏のベッドの前に置いた。

(社長って、日魯の社長のことです。ビックリ!)

「これ全部、得意先の贈り物にするそうだよ。」

「社長に、解りましたと、言っておいてください。」

蔵田氏はニコニコ笑いながら、心得たような素振りで言った。

毎年、社長と約束しているという。

蔵田氏は、社長おかかえの職人なのであった。

蔵田氏がもっている趣味の中で一番際立っていたのは、日魯の社長も頼んだ

タラバ蟹甲羅で作る宝船ではないか。

大変見応えのある見事なもので、貴重価値の高い作品である。

では何処がそんなに貴重価値が高いのであろう。

細工そのものも細かく、手が込んでいるのは確かであった。

帆は下から中段までは形がそろった棒肉の甲羅を使用する。

帆が上になるにつれ小さくなっていくので、南蛮の甲羅を使うのである。

大きい甲羅であれば、切ってそれぞれの帆の大きさに作っていく。

一枚一枚充分に乾燥させニスで仕上げ加工する。艶が出てとてもきれいだ。

甲羅の乾燥が不十分だと、変色し黒ずんでくるのである。

この甲羅のマストを三、四本立てるととても立派になる。

工場長が、蔵田氏に届けた竹やラワン板は、宝船の化粧土台として使われる。

この宝船の貴重価値は何といっても爪だろう。大きい爪である。

それも、左の爪。タラバも人間と同じように、左利きがいる。

その左利きは何と、一万匹に一匹という確率だ。

だから、左の爪を多く使用した宝船が、貴重価値が高いというわけだ。

わたしは今でも宝船の記憶は鮮明に残っている。

爪のことはまたあとでお話ししよう。

彼はタラバ蟹の標本作りや、わたしが教えていただいたクラフトの帆舞船も作っていた。

帆舞船に興味を持ったわたしは、彼に帆舞船の作り方を教えて欲しと頼んだ。

「ダメだ。教えられない。」

蔵田氏の返事である。

土屋さんは、わからネエけども、これからはじまる仕事は、とっても大変で、

工作なんかしていられねって…。

これから毎日、勤まるか倒れるかの境目で生きていくンだ…。

そのうえ工作なんかしていたら、寝る時間が無くなるから、ダメだ。ダメだ。ダメだ。

倒れてしまう。

これが教えられない理由であった。

蔵田さん。俺、絶対休まないから。

一回だけ教えてくれればいいから。絶対休まないから…。

わたしの押しの強さに蔵田氏が負けて、承諾してくれたのだ。

だからわたしも蔵田氏との約束を守った。

蟹工船の仕事を二航海したが、一秒たりとも休むことなどなかった。

あのとき、蔵田氏が教えてくれたから、わたしはいまもクラフトを作れるのである。

おかげで、クラフト制作年数もはや半世紀になろうとしている。

 カムチャツカ半島                    カムチャツカ漁場 

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船内案内

函館港を出港したその日、蔵田氏がわたしと大嶋氏を連れて船内を案内してくれた。

風呂場、洗濯場、洗面所、便所、食堂などである。

どうもわたしの記憶が抜け落ちているようである。

それぞれの位置関係とその中の様子などまったく思い出せない。

洗面所はどのようになってどこにあったのか。風呂場と洗濯場は同じところにあったのか。

飲料水は食堂にあったのか。その食堂はどのへんにあったのか。

あれだけ毎日のように使っていたのに、全然思い出せない。が、風呂はよく覚えている。

湯船に尻を落とすと、ちょうど首のあたりまでお湯が来ていた。当たり前だ。

オカの風呂と同じだ。

だが、大きさが全然違う。六畳位はあったろう。

その湯船に太目の蒸気バルブが、二本刺さっていた。

これを見てこの湯船の大きさが理解できた。

このぐらいの蒸気パイプの太さであれば、風呂もすぐに沸くだろう。

ボルトからの景色は海、海、海しか見えない。

湯船のお湯が、ちゃぽん、ちゃぽんと揺れていた。

いつも風呂に入るときは湯船に寄りかかり入る。湯船の真ん中に人などいない。

船はきまって夜に移動するから、船の揺れでお湯が結構揺れるのだ。

とても湯船の真ん中に入っていられない。

いくら湯船が大きくても、入れるのは湯船のまわりだけだ。

そんな蟹工銭湯のお湯は、海水なのである。カラダを洗う時は、真水のお湯で洗うのだ。

お湯は「お湯タンク」というタンクが湯船の横にあり、使う時はバルブを開けて

出すのである。

ところがこの風呂「お湯係」という人がいる。

お湯を使いすぎないように、水の元バルブに鍵をかけて管理しているのである。

彼の名前は覚えていないが、太っている人だった。

腰にいつもバルブの鍵をぶら下げて、チャラチャラ、チャラチャラと鳴らしながら

歩いていた。

一日使う水量だけタンクに水を入れ、蒸気バルブを開けると、どこかへ雲隠れして

しまうのである。

ゆっくり湯船につかっていると、洗い湯も上がり湯もなくなる。

海水湯のままで、あがってこなければならない。

わたしも一回経験したことがある。

上がったその時は、磯のニオイがするけれど、カラダはなんともないのである。

ところが、寝るころになると、かゆくて、かゆくて、かゆくて寝られたものではなかった。

だが、疲労に勝てる出来事など、ここには何ひとつない。

幾ら体がかゆかろうが超越疲労、超越睡眠不足には勝てない。

さすがに翌日の風呂を、これほど待ちどうしかったことなど、今だかつてなかった。

「お~い! 水出せ~ !」

時々お湯の管理人の名前を呼ぶ声が、部屋まで聞こえてくる。

風呂から出て管理人を呼び続ける。

それでも来なければ、裸で廊下をウロウロし管理人を探し続けるのである。

まさしく、男の世界の出来事である。

ここは、船国一国だ。

その船国で、初めて目にするモノも少なくはなかった。

道具であれ場所であれ、それぞれ用途に合った仕組みをしているものである。

ところが、その便所には度肝を抜かれた。

船の便所は和式水洗便所である。ウン! ちょっと違う。

水洗は水洗でも水ではなく海水だ。どちらでもいいか。流れればいいのだから。

海水なら掃いて捨てる…、ではなく。汲んでも、汲んでも、汲みきれないほどある。

それは大変良いことではあるが、あれには驚きも、あきれて後ろ向きにヒックリかえった。

便所の戸が無いのだ。あるにはあるのだが必要最小限に在る。

便所の戸が八十㎝位いしかないのである。それも床から二十㎝ぐらい空いている。

しゃがむと外から顔が丸見えなのだ。

それぞれの場所は、その用途に合った作りをしているものである。

という定義から考えると、これはいったいどいうことなのか ? 

初めて見た時は、ビックリ、驚き、口あんぐり、なんダこれは! であった。

これじゃ用など足せないではないか ! 蔵田氏は何も言わずに案内を済ませ出ていった。

何かあったか。といいたげであった。

わたしがこの便所に慣れるまで、だいぶ時間がかかった。

だが、慣れというものは人を成長させるものだ。

成長ではなく順応性。順応性ではなく適応力の即効性が増すのだ。

蟹工船は男だけの国。欲情の処理には誰も手をやくものである。

わたしも、そこそこ、かいていた。(手紙を…!)

同性愛に陥らせない為に、絶対、密室を作らないことだという。

一番密室になりやすいところが、便所なのだ。

欲情の捨て場所が便所であってはならない。

仕事の支障になるような疑わしい場所はいらないのである。

それならこの便所の戸は理解できる。

外から丸見えだから、逆に身の安全が確保できるのである。

そうなると、この便所の戸も用途に適合しているということになるのか。

便所に入ってくると、みんな頭を並べてふんばっている顔を拝める。

ゲートに入っている競馬馬のようだ。船国ならではでないか。

オカでは絶対に見られないここだけの光景だ。

そうだ!

この便所も良いところがあった。

空いている所がどこか、一目でわかるのだ。

それは便利だったな…。

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              蟹工船の便所 

みんな、そろってゲートに入りました!

こんなに、キレイではない!










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西カムチャツカ 蟹工船 協 宝 丸

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