法句経に添って

2020 12 11  投稿

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法句経を噛み砕き食します

「法句経」は最も古い経典の一つで

釈尊の言葉が比較的原初的な形で伝えられていると信じられています

翻訳家のデンマークのファウスペールは

法句経を〝東方の聖書〟と呼んでいます

松原泰道著 迷いを超える「法句経」より

われわれが独りで生きていけるほど

創造主は強く創らなかったようである

何かを必要とし 

何かに寄り添い

何かの声を聞き

何かの導きをもとめ

そこに

救いを得られる

我に気づく

善き夫婦であれ

独りがひとつの

道を歩まなければならない

さぁ

釈尊の声を聴きにいこうじゃないか

悉有仏

法句経をまねぶ

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「学ぶ」とは、真似ることからはじまる。なので、まなぶの基礎は「まねぶ」なのである。

人に生まるるは難(かた)し

人に生まるるは難し

いま 生命(いのち)あるは難し

世に ほとけあるは難し

ほとけの法(「おしえ)を聞くは難し

【一八二】

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「難し」は「有り難し」を略して言う言葉です。

有り難しは、「いま・ここ」に有ることが難しいことであり、稀であり、珍しいことだ、

という意味です。

いいかえると、人間の考えではとても思いはかれない真実をいいます。

つまり「不思議」ということになりましょう。

すると「人に生まれるは難し」は、人間に生まれてきたということは、

「何という不思議、例えようもないすばらしいことであろう」ということになります。

また「いま 生命あるは難し」も、亡くなっていく人が多いのに、

「いま・ここ」にこうして生きているとは、

じつに珍しい、もったいないことではないか、ということになります。

この容易ならぬ、世にも珍しい「人に生まれ、しかもいま生きている」不思議な、

人間の力では思いはかれない真実を体験して、はじめて「有り難い」が

感謝の言葉となってふき出るのです。

〝犬や猫に生まれずに人間い生まれて、そして、いま・ここに、

こうして生きているということは何というすばらしいことではないか〟

との実感が、人生を豊かにし、そして正しく生きる原動力となるのです。

松原泰道著 迷いを超える「法句経」より

通常、生命に「有りが難し」を感じる日常を送っているといいがたい。

病気や事故で死から覚醒した時に感じるのであろうか。

違和感のない正常な日常生活に感謝はあるとおもいます。

感謝はとってつけなければならない気持ちではありません。

悉有仏

悪を作さず善きを行う

「ありとある 悪を作さず

 ありとある 善きことは

身をもって行い

おのれのこころを きよめん」

これ

諸仏のみ教えなり

【一八三】

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白楽天曰く

「釈尊の教えを一言でいってみよ!」

道林禅師答える

「ありとある 悪を作さず

ありとある・・・・・ 」

白楽天はせせら笑って

「そんなことなら、三歳の赤ん坊でも知っている」

道林禅師低い声で曰く

「ところが、実行となると

八十歳の老人でも困難であろうーーーー」

松原泰道著 迷いを超える「法句経」より

ことわざに

言うがやすし 行うが難し

ということばがある

この問答は

それを はるかに超越している

謂わんとしていること確かであって

答えも確か

あとは 

日々に実行するだけ‥‥‥‥か……

ウ~~~ン‥‥

納得のためいきが……でる……

悉有仏

こころにこころ許すな

意(こころ)は 

すべてにさき立ち

すべては意に成る

意こそはすべてを統(す)ぶ

けがれたる意にて

かつ語り かつ行わば

輓(ひ)くものの後を追う

かの車輪のごとく

くるしみ彼にしたがわん

【一】

意(こころ)は 

すべてにさき立ち

すべては意に成る

意こそはすべてを統(す)ぶ

きよらなる意にて

かつ語り かつ行わば

形に影の添うごとく

たのしみ彼にしたがわん

【二】

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「意(こころ)は、とかく行為に先行する。

そのために私たちの意は、

一切の行動を規制するから、意を公平に偏らないように」という主旨です。

とくに対人関係の先入観ほど怖いものはありません。

これという理由なく何となく〝気に食わぬ奴だ〟というだけで、

その人を遠ざけたり、自分から遠ざかったりします。

それが

「意(こころ)は すべてにさき立ち すべては意に成る」

というのです。

自分で画いた幻の構図に従わされて、

他者を正しく見ることができない事実を

「意こそはすべてを統(す)ぶ《支配すること》」と、

この詩句は指摘します。

松原泰道著 迷いを超える「法句経」より

「当工房より挨拶」に投稿している、詩句

「こころこそこころ迷わすこころなれこころにこころこころ許すな」

を読んで、なおさらの

如く痛くわかる。

とくに対人関係の先入観は

胸をえぐられるほどの痛みを覚える。

わたしなどは、まだまだのまだのまだまだ、である。

わたしの詩句に

「不思議が いっぱいあれば 生きていける 未熟な己に ありがとう」

はい!

精進させていただきます。

悉有仏

うらみなきによりてのみ

「彼、われをののしり

彼、われをうちたり

彼、われをうちまかし

彼、われをうばえり」

かくのごとく こころ

執(しゅう)する人びとに

うらみは

やむことなし

【三】

「彼、われをののしり

彼、われをうちたり

彼、われをうちまかし

彼、われをうばえり」

かくのごとく こころ

執せざる人びとこそ

うらみは

やむべし

【四】

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よく「執念」といいます。

思い込んだら最後、いつまでもしつこく忘れないとらわれた心です。

うらみにかかわらず、

何かにとらわれている限り私たちは本当の自由の活動ができるわけではありません。

よって、

このとらわれの束縛を解いてとらわれから脱出するがよい、

と釈尊はつねに教えます。この三番の詩句もそれです。

松原泰道著 迷いを超える「法句経」より

これも

「一」「二」とおなじで

痛いところをつかれている

確かに 行うが難し だが

あらためて 行為の重要性を知ることとなる

行動よりさきに

行為の起因するまえに

執せざる己であるか

こころに 問うてみよう

悉有仏

うらみごころは

いかなるすべをもつとも

うらみを懐(いだ)くかぎり

うらみの止むときなし

うらみをこえてのみ

うらみは消ゆるべし

こは易(かわ)らざる真理(まこと)なり

【五】

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「うらみごとというものは、

たとえいかなる方法を講じても心中に怨念をもっている限り、

この世にうらみの止むときはこない。

うらみはうらみによってなくなるものではない。それは不変の真理である―ー」。

原典のパーリ語法句経を、

中国の古代の仏教学者が漢訳していますが、

この五番の漢訳を読み下すと、

[怨に、怨を以てせば、終(つい)に以て休息を得べからず。

忍を行ずれば怨を息(や)みことを得ん。]

此れを如来の法と名づく。となります。

うらみに報いるにうらみをもってするなら、

いわゆる、〝いたちごっこ〟で

うらみの休息(やすまる)のときはいつまでたってもありません。

うらみをなくすには「忍を行ぜよ」と教えられます。

といっても、常識的な〝こらえろ〟という平面的な意味ではありません。

私たちが一つ感情―ーいまの場合報復(仕返し)の感情―ーに打ち勝つ理性が忍です。

「忍」は、「認」が約された漢字です。

認に「認知・認許」の熟語があるように、

「みとめる・承知する・ゆるす」の意味をもちます。

松原泰道著 迷いを超える「法句経」より

おもいあたることが、いまさらながらに、よみがえってくる。

たしかに「忍」をもって行為し行動すれば、

いっとき偽りの苦痛をかんじられるが、後に安らかな日々がやってくるに違いない。

此れだけ理解しているのにもかかわらず実行できないでいる。

「理性一歩前進改革宣言」をせねばなりません。

悉有仏

釈尊は

「うらみにとらわれる人びとに うらみはついにやみことなし」

と三番で戒め、

「(うらみに)とらわれざる人びとに うらみはおさまるべし」

と教えます。

さらに釈尊は、

うらみを 

抱く人びとの中に 

慈悲ぶかく 

怒らず

 うらみなく 

われ住まんかな 

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「うらみをもつ人びとの中にわけいって、

慈悲の心で住みたい。先方のうらみを怒らず、またうらみかえさずに行きたい」と。

しかしさきの五番の詩句と読みあわせると、

いわゆる無抵抗主義ではなく「忍」の徳(はたらき)を強く示すのです。

釈尊が八十歳で亡くなるときの最後の教えの一つに

「忍の徳たるや、持戒苦行も及ぶ能わず」(遺教経)とあります。

「忍の大きな作用は、すべての戒を守ったり、あらゆる苦行にもまさる」というのです。

それは報復感情に打ち勝とうとする理性のはたらきが忍を実践することです。

松原泰道著 迷いを超える「法句経」より

松原泰道氏の解説の最後に

「報復感情に打ち勝とうとする理性のはたらきが忍を実践することです。」

と書いている。

忍の重要性が理解できます。

忍を実践しよう。

わたしも少しづつ実践していこう。

それは蟻の歩幅の進歩かもしれない。

が、実践には違いないのである。

悉有仏

そしりを受けざるはなし

アツラよ

 こは 古より謂うところ 

今日(いまに)にはじまるにあらず 

「ひとは黙して坐するをそしり 多くをかたるをそしる 

また 少しかたるをそしる 

およそこの世に そしりを受けざるはなし」

【二二七】

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アツラというは、在家信者の名できわめて信心深い人です。

一日多くの信者とつれだってある高徳の宗教家を訪ねて教えを乞いました。

ところが、この高僧はひとり静かに瞑想にふけっていて何も説いてはくれません。

アツラはいたく失望して、

今度は釈尊の弟子の中でも有名な舎利弗(シャーリプトラ)の所へ出かけて

同じように教えを求めます。

彼は、当時世間に知られた有名な懐疑派の大哲学者なので、

深遠な議論を水の流れるようにとうとうと説きます。

アツラは

「こんなにむずかしい話を聞いたって何もわからない」

と腹を立てて、

舎利弗と並んで記憶力のすぐれていることで知らぬ人のいない

阿難(アーナンダ)のもとへまいります。

阿難はどいうわけか話を少ししかしてくれませんん。

アツラは

(人をバカにしている)と心中でブツブツいいながら、

最後に祇園精舎の釈尊を訪ね、

それまでの事情を述べて

「どうか私にわかりますようにお説きください」と懇願します。

前記の二二七番の法句は、

このときに釈尊がアツラに告げた詩であるといわれます。

沈黙すればするでそしられ、多言する者はまた非難されます。

それなら、言葉少なに語ればいいかというと、

これまた「意をつくさない」と、決して良いとは言われないでしょう。

この世にあっては、

どちらへ転んでも悪口を聞かずにすまされないのです。

このことは、昔からのことで

「今日(いまに)に始まったこと」ではありません。

松原泰道著 迷いを超える「法句経」より

「この世にあっては、どちらへ転んでも悪口を聞かずにすまされないのです。

今日(いまに)に始まったことではありません。」

そしり=悪口・悪態・陰口・誹謗など。

これは人に一番身近にある行為行動ではないか。

絶えることなどない。

わたしも自分で気づかずにいっている。

それだけ、身についているのだろう。無意識の行為行動こそ要注意しなければならない。

悉有仏

ただ 一向(ひたむき)に そしらるる 

ただ 一向(ひたむき)に 讃(ほ)めらるる

 かかるもの

 過ぎゆきし日にはあらざりき

 今もまたあらざるなり

 やがて

 来ん日にもあることなからん

 【二二八】

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「ただ誹(そし)られるだけの人も、またただほめられるだけの人も、

過去にもいなかったし、現在はもちろん、未来にもいないであろうーー」と

詩(うた)いあげられています。

いいかえると一人の反対投票もなく、世間という広場で満場一致で非難されたり、

満場一致で称賛されるような人物など、いつの時代もおりはしないーーというのです。

広い世の中です。

いわゆる〝十人十色〟で、それぞれ指紋が違うように、

人それぞれの好みや思うところがみんな異なるのです。

さらに、何とか欠点を見つけて悪くいいたい〝趣味〟をもつ人だっているのですから…。

この法句を読んでいると、ほとけさまの釈尊ですら例外ではなく、

悪口の矢をそそがれたことが度たびあった事実を知ります。

こんなとき、釈尊はどんな態度をおとりになったのでしょうか。

ただ黙って忍ばれたとはかぎりません。

あるとき、一人のバラモン教徒が釈尊に向かって口ぎたなく、

ありったけの悪口雑言を吐きます。

この間、釈尊はじっと聞いていて一言も口にしません。

相手にいいたいだけいわせて、彼がようやく口を閉じると、釈尊は静かにこう問われます。

「あなたは他家(よそ)へ贈り物をもっていかれるときがあろう。

ところが、あなたのせっかくの好意も、先さまが、

要らないといって受けとってくれなかったら、

あなたはどうなさいますか?」

「仕方ないね。もって帰るさ」。

釈尊は、にこやかにうなずくと

「なるほど、わかった。

わたしもさきほどからのあなたの悪口の贈り物も不要で受けとれないから、

おもち帰り願いたい」と。

人の心はうつろいやすい。

敵ばかりとは限りません。

今日ほめてくれた人も、明日は手のひらをかえすように、

そしりの言葉を吐く人に早変わりをするのが世の中です。

たとえほめられてもいい気にならず、悪くいわれても気落ちしない信念を養うのが、

何より大切だということを学びましょう。

松原泰道著 迷いを超える「法句経」より

この法句はよく理解できます。

この対処法はいつも使っています。

それと、問いに返答するときには、何秒かまってからお話しすることにしています。

とくに怒りを誘う時の会話にはよくよく考慮し発言するようにしています。

悉有仏

正しく見る

世のことをすべて美しと観(み)

 官能(こころ)のおもむくにまかせ

 口に節度(はかり)をもたず

 こころはよわく はげみ少なし

 悪は

 かかる人を誘惑(まよ)わさん

 強く吹く風の

 か弱き樹木(き)を吹き倒すごと

 【七】

世のことをすべて美しとは見ず

 官能(こころ)はよくととのえられ

 口にするもの程度(ほど)をこえず

 こころは信(まこと)に

 はげみはつよし

 悪は

 かかる人をとらうすべなし

 強く吹く風に

 岩山のゆるがぬごと

【八】

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「世のことをすべて美しと観」るとは、

この世の中は自分たちのためだけにあるのだーーという考えをさします。

こんな発想法から、私たちは自分の官能の欲するままに行動するのを

「自由」だと考えて少しも疑わないのです。恥ともしないのです。

「口に節度(はかり)をもたず 」で、自分の好きなものは食べ放題に食べて、

自分の健康のことなど意に介しません。

あるいは自分のいいたいことは時と場所とを考えずに口に出します。

他人の迷惑など考えようともしません。

節度は「度を越さない、適当なほどあい」です。

節度を忘れた人たちが誘惑に一番かかりやすいし、また悪の世界にも陥りやすいのは当然でしょう。

こんな人たちは、悪魔の手にかかったら、それこそ〝いちころ〟です。

自分の感覚の欲望を自制できないのは意志が薄弱だからです。

意志が弱いから根気も弱く、

とかく怠け癖がついて、やる気も乏しい、

つまり「はげみ少ない」から誘惑にもろいのです。

このような人を、

この詩句は「強く吹く風の か弱き樹木を吹きたおすごと」と例えます。

程度(ほど)を知る」は、人間だけがもつ「足ることを知る(知足)」英知にほかなりません。

すべてに足ることを知るという信念をまもるなら、

健康はもとより精神的にも豊かな人間に育つことは確実です。

足ることを知らず程度(ほど)を超えると、希望はとたんに欲望となります。

金銭でも名誉でも地位でも、身の程を忘れた欲望に、

さまざまな誘惑がとりつくのです。

欲望のエスカレートを適当に制御する知足の英知を高める努力を、

私たちは忘れがちです。

松原泰道著 迷いを超える「法句経」より

ここで、私の好きな句がでてきました。

「少欲知足」

少ない欲で 足りるを知る。

これを忘れると希望が欲望に変わる。

まさしくそうであります。

よくよくわかります。

どこまでが希望でどこからが欲望なのかはむずかしいのですが、

そこは「度を越さない、適当なほどあい」なのでしょう。

判断する自分を見極める教え(指針)が不可欠ですね。

彼の開祖や高僧が信じついていった、

釈尊の法に身をかたむけなければなりません。

そして実践あるのみです。

ウ~~~ン

できません…

悉有仏


無心の縁との出会い

花びらと色と香を 

そこなわず 

ただ蜜味(あじ)のみをたずさえて 

かの蜂のとびさるごとく 

人びとの住む部落(むら)に 

かく牟尼(ひじり)は歩めかし 

【四九】

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(蜂が、花びらや花の色や香りをそこなうことなく、

ただ花の蜜だけを得て花から飛び去っていくように、

賢い人は村を修行してあるくがよい)

法句経には美しい詩句がたくさんありますが、

この四九番も読んでいるだけでさわやかさを覚えます。

くり返し読んでいると、深い意味が次第にわかってくるでしよう。

この詩は、釈尊が修行者に托鉢するときの心得を示されたものです。

托鉢は修行者が人からお米やお金をいただきに回り歩く修行の一つです。

托は「のせる」、鉢は「食器」です。

したがって、

托鉢は「修行者が修行のために食器の鉢を手にのせ、恵みを求めて各地を歩くこと」

ということになります。

釈尊は托鉢の修行を非常に大事にされたので、

臨終直前にも同じ戒めをされたことが「遺教経」に見えます。

この経は読んで字のとおり

釈尊が最後に遺された教えで、遺言の教えです。

「もろもろの飲食(おんじき)を受けては、まさに薬を服するが如くすべし。

好(よ)きおいても悪しきにおいても増減を生ずることなかれ、

わずかに身を支うることを得てもって飢渇(きかつ)を除け」と。

松原泰道著 迷いを超える「法句経」より

托鉢はまったく経験がありません。

なので想像すらつかないのですが、この句の意味するところは、すごく理解できます。

お釈迦様の謂わんとすることもわかります。

悉有仏

踏まれて瞋(いか)らず

大地のごとく いかることなく 

門閾(かどしきり)のごとく

 戒(いましめ)をまもり

 そのこころ げに

 淤泥(よごれ)なき池のごとし

 かかる人に

 いかなる輪廻(りんね)あらんや

【九五】

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釈尊の説法や仏教思想を盛った説話の中には「土」や「大地」がよく出てまいります。

それと対照的に、キリスト教には「天」の言葉をよく聞きます。

キリスト教は〝天の宗教〟、仏教は〝地の宗教〟というニュアンスで、それぞれの教えの一端を垣間見るできるようです。

大地は、私たちの足の下にある存在です。

いままでの学習で、大地が辛抱(忍)や耐えるこころを象徴していることにお気づきでしょう。

法句経はさらに「門閾(かどしきり)のごとく」と発展します。

「門閾」というのは、門のしきみのこと。

しきみというのは門の下にあってとびらをとめ、内部と外部とをわける境の横木の名です。

家の出入口の内部の区別をつくるために敷く横木で蹴放(けばな)しともいいます。

「敷居」の意味にも使われますが、蹴放しには戸や障子をあけたてするための溝がありません。

しきみにはこのような意味があることから、ものごとの区切りや段落をつけるとき「しきる」といいます。

今この法句に「門閾のごとく戒めをまもり」とあるのは、

戒(きまり)を守ってものごとをきちんきちんとしていく規則正しい生活を例えていっているのです。

つまり、大地は「忍」を、門閾は「戒」を象徴していることがわかります。

大地のようにいからず、門閾のようにきまりを守っていく人のこころは

「げに 淤泥(よごれ)なき池のごとし」と、この法句は讃えます。

淤泥(よごれ)がないとは、汚染されていないことです。

いからず、きまりを守って生きるなら、その人はいかなる悪にも汚染することはないでしょう。

松原泰道著 迷いを超える「法句経」より

仏教では、汚れなき対象に「池」「蓮」が使われています。

それらは自分の目で見られるので「汚れいない」と、わかります。

しかし、自分のこころは自分で見るることなどできません。

いや、まてよ。

それを見ているから、出来事の後悔も、反省も、教えも、希望も持てるということではないか。

今一度、自分のこころを垣間見てみよう。

そして、常時こころを確認できるように努めよう。

できるできないではなく、やるか否かなのである。

悉有仏

修羅の子と母と

他(ひと)の過(あやま)ちを

 見るなかれ

 他の作(な)さざるを

 責むるなかれ

 おのれが 何を

 いかになせしかを

 自らに問うべし

【五十】

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とかく他人(ひと)の過失や欠点は目につきやすく、他の邪悪もよく分かり、咎(とが)めたくなるものです。

「作(な)すべきことをしない」他者を責めやすいのも私たちです。

その私たちに「おのが 何を いかになせしかを 自らに問うべし」と、

この法句は迫るのです。

昔から〝他人(ひと)のふり見てわがふり直せ〟とも、

〝他の過ちを責むるまえに、わが過ちを省みよ〟と教えられるのも、

同じ訓戒でしょう。

しかし、この五十番の法句はさらに深く読みとらねばなりません。

相互の人間関係は、それぞれが出合ったときから始まるのではないからです。

誰もがいずれも無限の過去をもっていますから、いつかの時代に、どこかで、めいめいの間で、

必ず何かのかかわりあいがあったに違いありません。

たとえば、私は私一代だけで終始する存在ではありません。

わたしの父母は、いわば、わたしの過去の「私」です。

わたしの両親があるためには、四人の祖父母がいるわけです。

私からわずか二代さかのぼっただけでも、私には〝四人の私〟があります。

その数は代をさかのぼることに等比級数的に増えます。

私の三十代前の先祖から累計すると、

十億七千三百七十四万千八百二十四人の「私」になるといいます。

一代の平均寿命を三十歳としても三十代で九百年、ほぼ十世紀かけて十億余の「私」があるのです。

この数字を知れば、いつか・どこかで、

私は必ず誰、彼と触れあっているはずです。

〝袖触れあうも他生の縁〟とか

〝アカの他人は一人もいない〟という

ことわざがありますが、決して観念論的な発想ではないことが分かります。

松原泰道著 迷いを超える「法句経」より

この法句にうなずくということは、

それなりの事があったということでしょ。

作(な)すべきことをしない」他者を責めやすいのも私たちです。

その私たちに「おのが 何を いかになせしかを 自らに問うべし」と、

この法句は迫るのです。

まったくですね。

私のこれからの人生で「作(な)すべきことをしない」という教えを実行した一ものです。

悉有仏

ちからあるもの


こころ禅(しず)まり

 忍ぶことにつよく

 つねに

 ちから健(たけ)くはげむもの

 かかる勇健者(ちからあるもの)こそ

 安穏(やすらか)なる

 涅槃(さとり)には至らん

【二三】


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ほとけの教えを信じ、ほとけの教えの道を歩もうと志す者には、

六つの実践徳目が与えられています。

一 与える (布施)

二 守る (持戒)

三 耐える (忍辱)

四 励む (精進)

五 静める (禅定)

六 さとる (知恵)

この六項目を六波羅蜜(ろくはらみつ)六度ともいいます。

ここに読む法句経の二三番に、

六波羅蜜の中の四つが示されています。

すなわち、

こころ禅まり 《禅定》 

忍ぶことにつよく《忍辱》 

ちから健くはげむもの《精進》

 安穏なる涅槃《知恵》

には至らん

と詩われています。

「こころ禅まる」という禅定を実践し続けていくと、

自分はもとより、他にも落ち着きを与えます。

「忍ぶことにつよく」あるためには、何らかのきまりを正しく守ってはじめてできるのです。

「ちから健くはげむ」は六度のすべてを貫く実行力です。

与える布施に励み、戒を守るに励み、忍耐に励んでこそ、

心の安らぎが得られるのです。

松原泰道著 迷いを超える「法句経」より


われわれの何気ない日常の行為行動が六波羅蜜を実践しているのかもしれません。

もちろん、六波羅蜜全部などとは言いません。

ただ、無意識におこなっていてこころに留まっていないのではないでしょうか。

わたしがいえることのひとつに、

諸々の教えを受け入れてために素直なこころが必要ではないかと思うのです。

教えを実践まで導いていくまえに素直に受け入れられるかいなかではないでしょうか。

悉有仏

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