随筆 限界峠を超えて

カムチャツカの真実 10

蟹工船 協宝丸の世界

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カフラン沖

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カムチャツカ  蟹工船


1970 「協宝丸」乗船

1971 「晴風丸」乗船



カムチャツカ漁場航路図

カムチャツカ半島

カムチャツカ半島の位置 地図中央に位置する南北に伸びる半島

西カムチャツカ漁場

漁場

記憶をたどり書き続ける ノンフィクション物語

ベコ作り

会社は、ロスケとの暗黙の了解といえども、違法を犯しているのは事実であった。

その数は(×2)の(+α)である。これでは何のことか解らない。

*(×2)は(日ソ漁業協定妥結箱数×2は、二倍の製造数。)

*(+α)は(日ソ漁業協定漁獲違法品目の漁獲数)である。

どちらも、数字にすると到底考えつかない数字である。

これは、会社にしてみれば余禄であった。

親方がそうであるならば、子だって余禄が欲しい。

この余禄をここカムチャツカ方言で「ベコ」と呼ぶ。

このベコはオカで待っている人の、お土産になるのである。勿論、売る人もいる。

この蟹工船に乗船し、カムチャツカまで来なければ、ベコは絶対に手に入らない。

もし万が一、あなたが西カムチャツカ蟹工船に乗るようなことになったなら、

このベコ作りを覚えておいても損はしないとおもいますよ。

ここまで読んでくれたあなただけに、カムチャツカ・ベコ製造秘伝を伝授します。

(なんと、親切なこと…)

あの~、笑っていませんか。

わたしは、カムチャツカで実践体験し、ベコ免許を取得したのです。

だから、わたしは先生です。

では、はじめます。

ベコ(余禄)を作る方法は、二通りあります。

ひとつは、塩蔵。

ひとつは、乾燥である。

では、塩蔵の作り方を教えましょう。

こんどカムチャツカへ行ったときに本当に役に立ちます!

塩蔵は一斗缶に仕込むので、缶を用意しなければなりません。

船内での缶の確保は、大変難しい。

乗組員のなかには、函館港の出航時に数缶持ち込む人もいます。

そういえば、缶をいっぱい積み込んでいる人がいた。

こんなに何に使うのだろうと思ったのを覚えています。

それから、塩である。塩もそうだ。

三十㎏の大袋を積み込んでいる人もいた。

これも、何に使うのか不思議に思ったものだ。

では、塩蔵方法を教えます。

まず、缶にビニール袋を入れる。

ビニールを敷かないと缶が錆びて底がもたない。そして、その缶の底に塩を振る。

その上にタラバを一列に並べ、また塩を振りその上に、下のタラバと逆に並べまた塩を振る。

これを繰り返し行う。缶の上まで蟹が来たら日をおく。

数日たったら塩慣れし、水があがりタラバが沈みます。

塩水をすくいとりボルトから捨てて、またタラバを詰める。これを、二~三回繰り返す。

最後に、缶に蓋をして逆さまにし完全に水を切れば 、OK! 

この時こそ、慎重に慎重を期して行わなければならない。

もし、失敗したら、部屋中に塩蔵の棒肉が散らばる。それは即ち、廃棄の姿である。

一つ目の缶の蟹が沈むまでに、二つ目の缶に取り掛かるのである。ここが大事なのだ。

でも、これは塩蔵なので、凄く、重い。

これが欠点といえば…、欠…、いえねえ、いえねえ。

この缶、全部、タラバの棒肉だ。いえるわけがない。

もし、この塩が足りなくなったなら、どうすればよいのか。

船内「ストァー 協宝丸」では売っていない。

手紙で頼んでも、来るまで日数がかかってしまう。

あっ!そうだ。電報だ。電報を打とう。本当に、電報を打った男がいた。

電文は「シオ五キロオクレ」では、まずい。

「サトウ五キロオクレ」で打ったらしい。

そうして塩が届いたのである。

かみさんの機転もたいしたものだ。

函館に帰港すると、岸壁にベコを買い付ける人が来ている。

岸壁で乗組員と売買の駆け引きがはじまる。

確か棒肉一缶が、八千円から一万円のあいだで取引されていたのではないか。

とにかくベコの数には、驚きだ! 

みんな、あの狭い寝床空間のどこにしまっておいたのだろう。

本当に凄い! 自分の荷物よりもはるかに多い。帰りの荷物などベコ以外何もない。

着ている物以外は、全部船でごみ処分してくるのだ。

洗濯しても落ちない下着など、ごみ以外に何になるというのだ。 

次は乾燥ベコだ。

乾燥ベコは、ベッドの下に暖房用の蒸気管が配管してある。

それを利用する方法である。

一斗缶の蓋を蒸気管の上に置き、その上にタラバの棒肉を並べる。

蒸気管の熱で棒肉の乾燥品が一晩で出来上がる。これは、かさばるけど軽くてよい。

乾燥ベコはこれで終わりだ。乾燥だけに製造方法もかるい。

わたしのベコは塩蔵が一缶。乾燥が三十㎝四方の段ボール一個。

冷凍品が二キロ物を二枚だ。

わたしは下船後、ベコを札幌まで持って行き、日魯の元上司やコック長にお裾分けした。

大変、喜ばれた。

いや~。よくここまで持ってきたなぁと、感心されるやら呆れられるやらであった。

ここまではベコの作り方である。

問題は、工場からどのようにして、部屋まで運ぶかである。

工場が稼働して間もなく、部屋の先輩がベッドで妙なことをしていた。

白衣の左右の内側に大きなポケットを作っている。

それはポケットというよりも大きな袋だ。

その大きな袋の内側に、今度は少し厚いナイロン袋を、

裂けないように袋の内側に縫い付けた。

そして今度は、白衣の真ん中のボタンを取ってしまった。

そのボタンを、ボタン掛かりの穴の上から取り付けた。

付け終わって着てみると、ボタンが全部掛かっているように見える。

彼はボタン掛かりの下の開いているすき間から、手を入れたり出したりしている。

その手をそのまま内側の大きな袋に出入させていた。

袋の取り付け位置や口の角度を、確かめているようである。

そして、左右の袋に入れる動作を、何度となく繰り返し行っていた。

それはとても慣れている動作に見えた。

わたしは先輩が何をしているのか解らなかった。

でも、それは直ぐに理解することが出来た。ベコを盗むための、失礼! 

ベコを工場から部屋へと運び込むための、ポケットだったのだ。

このポケット作りを、部屋の人全員がしていたのではないか。

だが、カムチャツカ・ジェントルマンの三名はしていなかった。

それでもベコを持っていたンだよなぁ。

わたしも左のポケットをひとつ作った。

では、どのように、ポケットに入れるのかといえば…。

まず、仕事中に社員の背中を確認する。安全?であれば行動開始。

目の前の棒肉をボタンの掛かっていないところから、裏側の大きな袋へと入れる。

最初は入れづらい右側の袋からである。その後、入れやすい左の袋だ。

こうしてみんな、せっせと部屋まで運ぶのである。

ベコ作りは、商品価値の高い順番から行っていく。

順番は棒肉・南蛮・肩肉・爪である。

持ち運びは、昼休み前か、夜業前か、夜業終了後かで、週に一~二回である。

仕込みは部屋のベッドの枕もとで行っていた。

ベコ作りを乗組員全員していた。

要するに、ベコは毎日運ばれていたということだ。

物凄いK数になるだろう。缶詰にすると何箱できるのだろう。

これはもはや二重帳簿ではなく三重帳簿だ。

ロスケの監督官に悪いので、乗組員から羊羹でもさしあげようか。

まったくもって、ハラショ! ハラショ! である。

どこにでも、どうしようもない男がいる。

ここまで来ても居ることに驚きだった。俗にいうチンピラだ。

蟹工船が金になるので、暴力団の資金源になっているようなのだ。

たしか、一航海目の時ではなかったか。三人が乗っていた。

ところが、そのチンピラは少し働けば、休み。

また、することがなくなれば、少し働き休みの繰り返しであった。

ある日、ちょっとした事件が起きた。

彼らが、船底に隠してあった川崎船の乗組員のベコを盗み、

違うところに隠してしまったのだ。

そのベコは、タラバの内子の塩辛と外子の醤油漬けであった。

数は五〇缶近くであったと聞く。

それに気づいた貴重人種たちは、そのベコが出てくるまで沖には出ないと言い張ったのだ。

それはそうである。

波に洗われた川崎船の甲板で作った、タラバの子の塩辛だ。

彼らにとっては、大変貴重価値のある品物なのである。

直ぐ、全社員でベコ探しとなった。幸い見つかり元の場所へと移された。

この時はじめて、ベコが公の品物となったのである。

それからまもなく、チンピラは仲積船で函館へ送還された。

そうなのだ、蟹工船では曖昧な目的は持つに値しないのである。

そこから得るものは、何一つとしてない。

おかげで川崎船は無事に二時三〇分に海上へと降ろされ、仕事再開となったのである。

ここは船国だ。

ここから持ち出すことなど不可能なのである。どこへ隠そうが見つかってしまう。

あの重いものを、汗をカキカキ移動したというのか。これは彼らでなければできはしない。

何と言えばよいのか返事のしようがない。蟹工船始まって以来の珍事件ではなかったか。

わたしはタラバの内子と外子は好きだ。

内子は塩辛がいい。外子は醤油漬けがあう。

外子はポリポリと触感がよい。内子はねっとりとしてご飯や酒に合う。

寿司屋さんにいくと、必ず内子の入荷を聞く。あのにぎりはたまらない。

口に入れた瞬間、カムチャツカが甦る。

ついでに言わせてもらうと、オカでこれは旨い! というタラバを食べたことがない。

舌が憶えているカムチャツカの味にほど遠いのである。

これは、活ガニだよ! といわれても、その蟹はイケスのなかで生かされていた蟹である。

甲板でノソノソ歩いている蟹ではないのだ。

だからわたしは、オカにあがってからはタラバ蟹を食べてはいない。

何も贅沢な話しをしているのではない。

食べなくとも味が解るから食べないだけである。

だが内子、外子は別である。

あそうだ。

みなさんはフンドシの天ぷらを、食べたことがあるだろうか。

結構、旨い。カニの味ではないのである。

ベコ用ポケット

  ベコ入袋

大時化と水鏡

ボースンと蔵田氏との阿吽の呼吸で、川崎船を吊り下ろす作業は書いた。

わたしに文章力がないため、読んでいてもその光景が浮かんでこないのが難点なのだが。

本当に、ボースンの白い手袋は、闇に舞う二匹の紋白蝶のようであった。

ウインチを、自分の手足のように自在に操る蔵田氏の技も神業であった。

その蔵田氏の絶妙な技は乗組員全員が認めていた。

ボースンが信頼しきっていたウインチの神業とはどのような技なのか。

母船から川崎船を下すときは、それはまるで船を海に吸い付かせるようであった。

また逆に、川崎船を上げるときは、うねりと波の背からそうっとすくい取るような

やさしい吊り上げであった。

それが、凪でも時化でもほとんどおなじなのである。

多くの命が自分の腕に懸かっている仕事を、毎日たんたんと行っているB&Kは素晴らしい。

だが、何といっても、わたしは貴重人種の彼らには度肝をぬかれた。

腰高の甲板壁に、ロープ一本張られているだけの川崎船の甲板上で、朝も昼も飯を食べる。

風上で小便をしていると、小便が潮風で横に飛び、艫(船尾)で食べている飯に入る。

それを、フリカケと思い喰わなければ、喰うものがない。

そうして、仕事を終えた貴重人種たちが、午後三時に母船に帰ってくる。

凪の時でも、大きな船に横付けすれば、小さな船など揺れに揺れるのである。

母船の横に着いた川崎船は、まるで木の葉のように揺れ動く。

ここカムチャツカでは時化の方が多い。

操業期間中、川崎船が降りない日は、一日あるかないかであった。

まるで、時化ない海のようにおもわれるがそうではない。逆である。

誰が見ても時化なのだが、川崎船が操業しているということは、時化ではない。

川崎船が降ろせない、もっとすごい時化があるということだ。

このカムチャツカで、時化の時の操業決定を、誰が下すのであろうか。

工場長か。いや違うな。

やはり、日魯の川崎船乗りの誇りが、最終決断をするのであろう。

板子一枚地獄などというが、ここではロープ一本が地獄との境である。

自分達の命の在り方を自分達が決断を下す。

これが一番重要な誇りだ。

命を粗末にして、誇れる誇りなど誇りとはいわない。

それはきっと、人間ともいえないのではなかろうか。

やはり彼らは、すごい。

カムチャツカ大海原は、様々な顔を見せてくれる。

沖で兎が飛ぶと三角波が発生する。

その時には母船といえども結構揺れる。

大時化にでもなれば、棚から荷物が落ちてくる。

そうかとおもえば、水平線のその向こう地球の丸味の果てまで、

水鏡のようなベタ凪も見せてくれる。

その時に、沖に止まり網上げしている川崎船を見ると、水銀の大海原にぽつんと

置かれているようにも見えた。

川崎船の腹まわりには、超ベタ凪でしかみられない水銀表面張力が見られる。

こんな光景などはじめて見た。

とにかく、三六〇度ゆらりともしないのだ。

こんなベタ凪は航海中に一回あるかないかの珍事である。

わたしは、二航海目でこの神がかった光景を見させていただいた。

神秘とはまた違って、何かさわやかな空気感を醸し出しているように感じられたものだ。

多分、6、7月頃ではなかったか。

カムチャツカの海上であることを忘れさせる出来事であった。

やはり、神がかりである。

また、朝日はとてつもなくでかく昇り、真っ赤であった。

船体の白ペンキを真っ赤に染めながら、ゆっくりと昇ってくるのである。

これも、ここがカムチャツカであることを、忘れさせる光景であった。

夕日は、これが夕焼けの色だといわんばかりの色に染めながら、

大きな夕日となって落ちていく。

夕日が落ちてカムチャツカに夜が来る。

残念なことにカムチャツカの星空を見ることはなかった。

夜はいつも夜業をしているし、母船が航行中なので甲板には誰も出られないのだ。

きっと、きれいだろう。わたしはもうカムチャツカの風景を見ることはない。

だが、わたしのこころのなかの蟹工船 協宝丸は、

今もカムチャツカで操業中なのである。

カムチャツカの朝






カムチャツカの朝

帰 港

函館港からカムチャツカの漁場まで、協宝丸で約八~九日位の航海ではなかったか。

行き航路は函館港を出港し、襟裳岬の沖を通り、北方領土を左に見て、

千島列島の間を通って北上する。

北方領土の島々が左後方に去ると、われわれ乗組員は、日常と非日常の変更線を

超えたのであった。それは、非日常の世界へ侵入したということだ。

乗らねばいがった~、という後悔が、もう帰れねなぁの諦めへと変わる。

ここからようやく、カムチャツカ人になるのである。

何もかも初めてのわたしは、目の前で繰り広げられるすべての出来事が新鮮で、毎

日を満喫する始末であった。でも、不安はあった。

ただその不安は、決して重い不安ではなかった。

毎日が本当に楽しかったからである。

でもそれは工場が八時間勤務のときだけ。漁場へ着くまでの間である。

工場が本稼働したら母船全体が、突然、蟹工船化した。

ひとから聞いていた仕事の話しなど、一瞬にして頭から削除されたのである。

わたしが蟹工船、二年目の一九七一年乗船の時、日ソ漁業協定妥結は難航した。

勿論、出航もかなり遅れたのである。

その原因が、二百カイリ経済水域問題であった。それと大きな問題が一つあった。

船団が五社五船団から、五社二船団に減船となったのだ。

母船減船で、日魯はマルハと合併をした。

当時はカムチャツカ蟹工船だけの合併であったが、いまは本当に合併した。

後の一船団は、日水、キョクヨー、宝幸の合併であった。

乗船してまもなく蔵田氏から聞かされた話しである。

そしてこの年の数年後に、北洋漁業廃止となるのであった。

その時、貴重人種、カムチャツカ・ジェントルマン、

裁割の皆さんはどう思ったのだろうか。

今もそのことが、記憶海域の底にゆらゆらと漂っている。

日魯とマルハの漁業協定で、乗組員と母船が決められた。

蟹加工缶詰技術は日魯が優れていたので、製造は日魯に決定となった。

だからこんなペイペイの私でも必要とされたのである。

その優れている製造技術は多岐にわたっていた。

特にソボロ製造技術に評価があったと聞いていた。

ソボロとは、缶詰に製肉を詰めたあとのグラム調整で使用する肉である。

くずれて製品にならない身をほぐし、少し荒いフレーク状態にしたものをソボロという。

その製造配合がずば抜けていると聞いたことがあった。が、確かな記憶ではないのだ。

わたしもソボロの製造現場を何度も見た。手際よいのはよく覚えている。

だが、あのソボロが、他社より優れていたとはわからなかった。

山盛り状態のソボロをみたら、蟹の赤身と白身がまざり合い、キレイだと誰でも思うだろう。

もしかして、あのキレイを生んだカニの混合比率が、他社には真似のできない技だったのか。

なんだ、そうっか! というほど、納得のいく話しではないように思うのである。

缶詰は、味、みばえが評価されるのは、缶から出されてはじめて対象となる。

それを考慮しながら肉詰めされるのである。

ソボロも主役の製肉に負けないくらい、タラバを主張していれば、缶から出されても、

華やぐというものである。

そのような日魯が製造全般をまかされ、マルハは、母船・晴風丸と

漁労関係を担うこととなった。当時、晴風丸は五船団で一番早い母船だったという。

ある早朝、後方の水平線に晴風丸を発見する。

翌朝、その晴風丸は協宝丸のはるか前方を走っていた。これには、ビックリした。

晴風丸は函館からカムチャツカの漁場まで、他社の母船より二~三日は早かったのである。

切り上げ後の母船の主な仕事は、機械のメンテナスと工場の解体作業である。

解体された木材は、来年も使用できるものと、処分する木材とに仕分けされる。

まだ使える木材は、特にきれいに洗浄し、柵を差し込み重ねられ乾燥させる。

解体作業と船内清掃が早く終了すれば、帰り航海の仕事は完了なのである。

早く作業が終了したなら、残りの日は完全休暇になるのだ。

ところがそうは遊ばせてはくれない。

帰港する前日まで仕事は切れないのである。

一回目の航海ではないかと思う。

切り上げ後の工場解体が予定より一日早く終わったことがあった。

後は函館に着くまで自由行動である。このようなことはとっても珍しいという。

自由行動だからといって、どこかに行けるわけでもない。

何ヶ月も甲板の下にいて青白い顔になっている。甲板にでては日向ぼっこを楽しむ。

青白い顔のまま函館に着くのは、ちょっと格好悪いではないか。

母船の航路なのだが、先述したとおり行きは、北方領土を左に見ながら

カムチャツカへ北上する。

帰りは稚内沖を南下するのだ。

夏の真っ盛りを、北から南へと下がっていくのである。

一日一日、暑さが強くなってくるのが肌で感じる。

稚内まで来ると、青白い肌に、じりじりと真夏の太陽が射してくる。

だんだんと肌が赤く焼けてくる。暑くて、暑くて甲板にあまり出なくなった。

その頃になると、奥尻が見えてきて函館山が見えてくる。

夕べ支度金が支給された。わたしは乗船前と同じ十万円を借りた。

一夜にして貧乏人から小金持ちになったのである。

帰り支度をしながら、部屋の人たちに別れを言う。

帰り支度などというが、乗船した時と同じ衣服を着て降りるだけである。

あとの衣類はゴミ箱行きだ。だから帰りは身軽なのである。ベコをのぞけば。

蔵田氏には無言で握手をしながら頭を下げた。

「よく、頑張ったなぁ」

いつものようにニャっと笑いながらいった。

熱いものが込み上げてくる。

岸壁に接岸される母船

協宝丸 函館港帰港

帰港
















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西カムチャツカ 蟹工船 協 宝 丸

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