おもいでばなし   

 Microsoft Word - 一輪の花 1.doc_20131008_110505_001   Microsoft Word - 文書 1_20131006_151621_001   Microsoft Word - 一輪の花.doc_20131007_135714_001

悉有仏

Microsoft Word - と 印

投稿 2013 09 14

ワード・フリーハンド絵画

Microsoft-Word---HP-1641_thumb

 

 

 

 

 

 

お 婆 と ぼ く

悉有仏

Microsoft Word - と 印

投稿 2012 10 10

Microsoft-Word---HP-1641_thumb

 

 

 

 

 

 

お婆 と ぼく NO5

 

【 生家の裏庭 】

Syouka― no ― uraniwa

CanoScan Toolbox Ver4.1.3_20140321_164810_001 

1998年 5月4日 写生

ボールペン画

生家の裏庭に自生していた樹木を写生した絵である。

杉の一種と聞く。

その周りには、オンコの木もあり、シダ類の一種が広く密集していた。

そのお陰で、雑草が、モトイ! 雑草という名の草はないそうだ。

そのお陰で、他の草が生えてこなかった。

正式な名前を知らないので、類とか、一種といっているが、年齢はわたしより上で

ある。そのほかに、これもまた、正式名を知らないので、イチョウの一種というほ

かないのであるが、樹齢百年近い、または超えていたとおもわれる巨樹があった。

あった、ということであるから、今は無い。

杉の一種も、シダ類も、イチョウの大木もない。

みんな、わたしのわがままで、寿命を真っ当することなく終えた。





「詩集 人生に舞う」のなかの【苦が植わる】という詩に詠っている地である。

今は私から離れて、こころの地となってしまった。

父母の苦を見続けてきた、モノいわぬ苦の伝道物?であった。 

それをわたしは、手放したのである。

父母の苦が植わるその地に、今、小さな介護施設が建っている。

その中庭の真ん中に、樹齢百年のイチョウの大木が、地上2m位のところで切られ

ていた。

それを見たわたしは、大きな切り口をなぜながら、木に向かって一礼した。

込みあげてくる悲しみと、切られ痛かったでろう、無念であったろうと、合掌し詫

びた。父母にも、お爺にも、お婆にも詫びた・・・。

その時わたしは、先祖代々の苦が植わるこの地に、無言の伝道物?たちと一緒にい

たことだけは確かであった。

それから数か月。

2mの巨樹の残骸もすっかりなくなっていた。

胸が締め付けられるようであった。

 

悉有仏

Microsoft Word - と 印

投稿 2014 03 20

Microsoft-Word---HP-1641_thumb

 

 

Microsoft Word - 辻説法.doc_20130117_162006_001

辻 説 法 !

ワード・フリーハンド絵画

 

 

 

 

 

お婆 と ぼく NO4

 

【 感謝に余り無し】 

Kannsya-ni-amarinasi

 

昨今、二世帯住宅が皆無に近いといわれています。

子供にとって、お年寄りと一緒に住むのは、人間形成上とても宜しいのではない

か。この歳になっても、祖母と一緒に暮らした、16-7年の思いでは、いまでも

ひかり輝いている宝物であります。

祖父は、わたしが2歳の頃に亡くなったといいます。

なので、わたしの記憶のなかに、ひとコマも登場することのない祖父であります。

ですから、父親から聞いた祖父の話しを基にして、わたし勝手、都合の良い祖父像

を描き、記憶のなかに登場させています。

ありがたきかな、父母も、お爺、お婆も、与えられたいのちを、真っ当にしてきた

ために、わたしがいま在る訳であります。

代々の親たちの真面目さに、心底頭が下がる思い出あります。

感謝。感謝。

感謝に余り無しであります。



わたしの父は、4歳のときに隣町から養子にきました。

その頃、我が家の家業は、農業と米の精米を生業(なりわい)としていました。

祖父が、結核でしたので、当然、子供はつくれませんでした

子供をつくれば、必ずその子は結核となるのです。

でも、祖父夫婦は、二人の子供をつくりました。

結果は、言うまでもなく、二人の子供たちは、大人になって結核になったのです。

家業を継ぐために、養子に来た父は、実子とはまるで違う育てられ方をしたそうで

す。あまりのきびしさに、父は、5歳か6歳の頃、生みの親恋しさに、生家へ家出

をしたそうです。

ちゃんと、自分はもらわれて来たことを、知っていたんですね。

隣町といっても、10キロぐらいは離れています。

子供の足では、かなり遠い道のりですよ。



 

父は、小学校中学年になると、学校に行く前に家の手伝いをさせられます。

まず、外掃除、玄関はき掃除、すんだら、水まき。

玄関の窓拭き。玄関の上がり段の掃き掃除、そして拭き掃除。

この手伝いをすませてから、学校へ行ったようです。

いま、子供たちは、家のお手伝いをしていますか?

親がさせないのか、子が言うことを聞かないのか、お手伝いをしている子供たちの

すがたを、あまり目にすることがないような気がするのは、わたしだけでしょう

か。父が、中学生になると、家の仕事にくわえて、畑の仕事が増えます。

高校生になると、畑の仕事にくわえて、工場の仕事がくわわってきます。

精米所の仕事は、結構、きつい仕事だと思います。

米1表60キロ。

父は、1表を背に担ぎ、もう1表を右手に持ち仕事をしたといいます。

高校では、祖父夫婦もカラダを鍛えるということで、柔道部に入ることは許してく

れたといいます。そのかわり、自分のやりたいことをするのだから、家業に穴を開

けることは許さない。と、いうことでした。

祖母と約束し入部が許されたのです。

父の体躯は、家業と柔道が作った、筋肉質で骨太のがっしりしたカラダでした。

父は、自分から昔のことを、話す人ではありませんでした。

こちらから聞いて初めて、話し始めるという人です。

父に、ある日、聞いた。

「いままでで、親にしてもらったことで、一番嬉しいかったことは、何なの・・」

父は、直ぐ、答えた。

「高校へ行かせてくれたことだ・・。」

「今になっても、高校へ行ったことが、役立っている。」

大正4年生まれの、父のことばである。

よほど嬉しいかったのであろう。

父は、5人の子どもを、母と一緒に苦を拾い続けながら、全員高校に入学させたの

である。

父は言う。

父さんは、高校の授業料を、一年分一括払いしてもらっていた。と。

父の回想が、はじまる。

「ここに、座れ。」

「今、米1表いくらだ。答えてみれ。」

「醤油1斗いくらだ。」

「味噌1斗は・・・。」

祖母の質問に、父はひとつひとつ答えていった。

「したら、静。この1年分の授業料は、どういうもんだが、わがるな・・。」

板の間に、正坐している父の前に、祖母がふところから封筒だし、お金を抜き取

り、父の前に封筒とともに差し出した。

父は、額が板の間に着くまで、頭を下げた。

「ありがとう、ございます。」



時代の倹約を父親とし、質素を母親として、父は生まれてきた人だ。


そいう、両親に育てられてきたのである。 

誰が教えたものでもない。

倹約の心臓は、質素の血液を、体の隅々まで運んできたのである。

よくもまあー、水のみ百姓でありながら5人の子どもを高校へ上げたものである。

よほど、高校へ行かせていただいたことが、嬉しいかったのだろう。


わたしたち5人の子どもは、

義務教育期間中,一度も給食を食べたことがありません。

要するに、わたしの通った学校には、給食がなかったのです。

だから、母は、子供5人分と自分たちの分で7個の弁当を毎日作っていた。

弁当の中身の色は、いつも茶系一色で、米の白さが際立っていた。

父さん、母さん。ありがとう・・。

悉有仏

Microsoft Word - と 印

投稿 2012 12 21

Microsoft-Word---HP-1641_thumb

 

 

 

 

 

 

 

お婆 と ぼく  NO3

 

【人生の陽と影 】

Jinnsei no hikari to kage

Shitsuubutsu

 

「ああっ お婆が 死んだ!」



高1の春、お婆が亡くなった。

わたしはお婆に育てられたといってもよい。

白装束で横たわる、お婆の懐に感謝の詩

「人生の陽(ひかり)と影」

を差し込んだ。



 

硬くて冷たかった。



その秋、私に某ラジオ局から電話があった.

出たのは親父だ。

いきなり「何悪いことをスタ!」と怒鳴られた。

わたしの詩「人生の陽と影」を放送したいというのである。

この詩をどのような気持ちで書いたのかインタビューをしたいという。

とてもきれいな女性の声だ。

ほんとうにきれいな声だった。

今も覚えている。

その日、田舎者の子どもが札幌駅に立ちタクシーで局まで向かった。

局に着き応接室に通された。

「遠いところ、ありがとう。」

応接室のドアが開きあの声で話しかけられた。

わたしはすぐ声を確認できたが、

顔がイメージとかけ離れすぎて思わず女性の姿を探そうとした。

いや、目は探していた。



 

あああッ。

声と・・・顔は・・・違うンだ・・・。

帰りの家路がとてつもなく遠く感じた。

あの「衝撃!某ラジオ局女性アナ事件!」の後、私の心のどこかの扉が開いた。

それから私はこころの詩(うた)を書き続けているのである。

あの女性に感謝をしなければ・・・

・・・いけない。

 

悉有仏

Microsoft Word - と 印

Microsoft-Word---HP-1641_thumb

 

 

 

 

 

 

亡きお婆に捧げる詩

 

 

老婆の感謝

 

 

詩集 人生に舞う より

 

悉有仏

Microsoft Word - と 印

Microsoft-Word---HP-1641_thumb

 

 

 

 

 

 

 

冬の月

Microsoft Word - 月と枯ススキ.doc_20121111_122135_001

極 当たり前に行いましょう。

 

悉有仏

Microsoft Word - と 印

Microsoft-Word---HP-1641_thumb

 

 

 

 お婆 と ぼく  NO2

 

【コゲめし おにぎり】

  Kogemesi-onigiri

 

 

Shitsuubutsu

 

「いま 一番食べたいものは何ですか?」 

と 聞かれたなら、きっとこう答えるでしょう。

「はい。 こげ飯の塩味のおにぎり!」 

ですと・・。

小学生のころ学校から帰ってきても家に誰もいませんでした。

両親は家から遠くの通い畑の山の畑で働いています。

「母さん 腹減った~。」 

と 行くわけにはいきません。

わたしはもう、腹減って腹減ってガマンができませんでした。

ところが、ところがです。

お婆がいるではありませんか、お婆が。 お婆も畑で働いていた。

お婆の畑は家の前の国道をはさんで向かい側にありました。

学校から帰ってくるとランドセルを玄関に放り投げて、お婆のいる前の畑にとんで

いった。

お婆は、夏でも刺し子のドテラみたいなひざ下までの長い着物を着ていた。

その格好で砂地の畑に這いつくばって、手をスコップ代わりにして何かを掘ってい

た。わたしは半ズボンとランニング姿で、腹ばいになっているお婆の横に座って、

力なくいうのだ。

「お婆~ 腹減った~。」

「おう、帰ってきたか~。」

と、お婆がおもむろに立ち上がる。

「チョウっと・・・まて・・・。」

お婆はそういいながら砂をはらい落とし、少しはなれたところで立ち止まり、

おもむろにドテラをまくしあげ両足を少し広げて、前かがみになったそのとき、

ジョウーと、立ち小便をした。終えたら腰をチョイト振り、お、わ、り! わたし

は、牛のションベンだ~ と、思ってみていた。

お婆はわたしの手をにぎりながら家へつれていく。

その頃、国道に車が走ることなど滅多になかった。

でもお婆は、道路を横断するときは左右確認をして渡っていた。

お婆は、元祖 みどりのおばさん じゃなく! みどりのお婆なのだ。

トボトボとお婆の歩調にあわせて、やっと家に着く。

地下足袋を脱ぎゲタに履き替え、外に出てまた着物に付いた砂をはらう。

「お~~~い! はやく 何か食わせろ~!」

と、わたしが養っている唯一の生き物である腹の虫が、デッケ~声をだして叫ぶ。

それは、それは大音響だ。腹のなかは防音対策をしていないので音が外に漏れる。

「グ~~~~。」とね。

みんなそれを、腹の虫が泣いているなどといいますが、あれは、叫んでいる、が正

解です。で、お婆は流し(台所)に立って、井戸水で手を洗う。

手は真っ黒で土の色が落ちない。 手が水にぬれて黒光りをしている。

その手で茶ダンスの下の戸棚を開けてお櫃(おひつ)を出す。

お櫃のとなりには、どんぶりに入った沢庵があった。

お婆は黒光りの手に塩をつけ、コゲ飯まじりのごはんを手にのせ握りはじめる。

小さめなおにぎりをふたつ皿にのせ沢庵を添えてくれた。

「ほれ、食べれ・・・。」

これがまた、なんともいわれぬ絶妙な塩加減と、

こげの苦味と香ばしさが調和して絶品となるのだ。

そしてまた、其の味に沢庵の甘味のある塩味と漬物独特の風味が加わる。

これはもう~、ウメクテ、ウメクテ、倒れそうだで。 ということなのであります。

後片付けをすましたお婆はきざみ煙草の「ききょう」を吸う。

食べ終わった孫に

「遊びに、いってこい。」

と、声をかけながら煙管の灰をたたきおとした。

わたしは養っている腹の虫から「余は満足じゃ。」の声を、聞いたような、聞かな

かったような。

もう、それどころじゃない。 早く遊び相手をさがさなくちゃ。

わたしは海に向かって走り出そうとした。

 

そのとき、お婆が コン! と、二服目の灰を落とした。

岩の木

Microsoft Word - 岩のき2.doc_20130114_124027_001

正しい疑問をみつけましたか?

悉有仏

Microsoft Word - と 印

投稿 2012 12 12

Microsoft-Word---HP-1641_thumb

 

 

 

 

お婆 と ぼく NO1

 

【 盗み飲み 】

Nusumi-Nomi

 

Shitsuubutsu

お婆は、「まんじゅあげ」という髪型をいつもしていた。

確かそういう名前でなかったかと思う。

頭の真ん中より少し後ろ側に髪をあつめて饅頭のようにまん丸にして結ぶ。

そうそう、サザエさんの母さんのフネさんがしている髪型だ。

昔の婆さんの髪型はみなこのまんじゅあげだ。

お婆はいつも水油で綺麗に結っていた。

たまあに風呂から洗いざらしの髪であがってくると幽霊にみえたものだ。

落武者だ。それも老侍の落武者。

お婆の風呂上りのすがたは夏は浴衣、冬は腰巻とじゅばんと刺し子のドテラ。

もちろん、下着はつけない。

ヘビースモーカーのお婆は、風呂上りの一服を実にうまそに呑んでいた。

居間のとなりに囲炉裏があって、その正面がお婆の所定の位置だ。

お婆のせんべい布団がいつもあった。その横にお盆がいつも置かれている。

お婆専用のお盆である。蓋に山とお月さまの絵が彫られていた。

中に何が入っているのかだいたい察しがつく。

ご飯茶碗、お椀、はし、スプーン、湯呑茶碗二個、

うちひとつが入れ歯用(入歯ヤニだらけ)、茶托、果物包丁だ。

お婆には子供が3人いた。男ばかりである。

三男がとなりで食料品雑貨小売店をやっていた。

いつ頃からか記憶がないが、三男のおっちゃんがお婆にヤクルトを毎日持ってき

た。むかし飲み物類はほとんど瓶に入っていた。

ヤクルトも瓶入りであった。ガラスがとても厚かったのを覚えている。

落としても簡単に割れない。そして栓、キャップは紙である。

飲み物も食べ物もおいしいものが食べられない時代であった。

とくに甘いものがなかったのである。

ヤクルト!それはいったい何者!  どんな。  味なのか。

飲んで。  みたい。  が本音である。

それがお婆のお盆のなかにいつも入っている。

お婆にバレないで、味見できる方法がないものか???  ものすごく考えた。

勉強もこれくらい熱心に考えたら、もう少し頭も良くなったものを。

さて、どうやったら  盗み飲み  ができるのか。

たとえばキャップにキズつけないように開けても、一回開けたキャップは次に開け

るときわかる。では、どうすればよいか。

キャップとヤクルトのあいだに空気の層がある。

これだ!

バレない盗み飲みの方法!

1.ヤクルトをキャップのまま口にあてて思い切り吸う。

2.そのときキャップに唾液を絶対つけない。

3.吸うと空気の分だけヤクルトがでてくる。

4.キャップをぬらさない。

5.吸うのは一回。

6.これを毎日やる。

はじめて吸ったときの味をいまでもハッキリおぼえている。

いままで味わったことのない濃厚な味だった。甘くてとってもうまかった。

このころの甘いものといえば、

あんぱん、豆ぱん、ジャムぱん、ムシぱん、キャラメル、ガム、アイスキャンデー

だ。クリームぱん、ぱん類の後発商品ではなかったと思う。

どちらにしても、食べられなかたものばかりだ。要するに、銭がなかったのだ。

ジュース類は粉末ジュースを一升瓶に溶かして飲んでいた。

学校の先生の家とか、会社員の家にはいつもあったようだ。

我家では普段はない。

ジュースは運動会用の高級飲料水だ。

それゆえヤクルトは最高級飲料であった。

お婆はすごいものを毎日飲んでいるンだなと思った。

確かわたしが小学校高学年のころに、ヤクルトはいまの形態になったのではなかろ

うか。もうキャップを吸うことができない。

さらば ヤクルトだ。

ところが、世の中も予期したもので、このころになると貧乏も少しずつ薄れてきた

のである。

悉有仏

Microsoft Word - と 印

投稿 2013 02 09

Microsoft-Word---HP-1641_thumb

 

 

 

 

 

 

次へ

 

詩・超越の五十音へ

 

くらふと工房 悉有仏


ジオラマクラフト製作
 

サイト補足

当サイトでは拡大率100%に最適化されております。 Please set up the magnifying power of a browser to 100% at this site.