釈尊 「人の道」  

壱の巻

釈尊の「人の道」を読んでみよう。

我々はどのような道を生きていけばよいのであろうか?

知らないよりも、知ってたほうが良い

知ったなら、実行するが良い

けれども・・・

悉有仏

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道の人

わたくしは二十九歳で、なにかしらの善を求めて出家した。

わたくしは出家してから五十年余となった。

正理と法の領域のみを歩んできた。これ以外には道の人なるものは存在しない。

「大パリニッパーナ経」

真のバラモン(僧侶・思想的指導者)

われは、バラモン女の胎から生まれバラモンの母から生まれた人をバラマンと呼ぶ

のではない。

…無一物であって執着のない人、――かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執着を超越して、とらわれることのな

い人、――かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

「スッタニパータ」六二〇―六二一

現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれない人、――かれをわた

くしはバラモンと呼ぶ。

「スッタニパータ」六三四

この世の禍福(かふく)いずれにも執着することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな

人、――かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

「スッタニパータ」六三六

曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、

――かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

「スッタニパータ」六三七

生まれによってバラモンとなるのではない、生まれによってバラモンならざる者と

なるのではない。

行為によってバラモンなのである。行為によってバラモンならざる者なのである。

「スッタニパータ」六五〇

行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司

祭者となり、行為によって王ともなる。

「スッタニパータ」六五二

世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者

は業(行為)に束縛されている。

進み行く車がくさびに結ばれているように。

「スッタニパータ」六五五

清浄への道

バラモンよ。木片を焼いたら清らかになれると考えるな。

それは単に外側に関すること外面的なことであるからである。外的なことによって

清浄になれると考える人は、じつはそれによっては清らかになることができない、

と真理に熟達した人々は考える。バラマンよ。わたくしは外的に木片を焼くことを

やめて、内面的にのみ光輝を燃焼させる(=内部の火をともす)。永遠の火をとも

し、つねに心を静かに統一していて、敬われるべき人として、わたくしは清浄行を

実践する。………よくととのえられた自己は人間の光輝である。

「サンユッタ・ニカーヤ」

「一切の形成されたものは無常である。」

(諸行(しょぎょう)無常(むじょう)と明らかな智慧を持って観るときに、人は苦し

みから遠ざかり離れる。

「一切の形成されたものは苦しみである。」

(一切(いっさい)皆(かい)空(くう)と明らかな智慧を持って観るときに、人は苦し

みから遠ざかり離れる。

「一切の事物は我ならざるものである。」

(諸法(しょほう)無我(むが)と明らかな智慧を持って観るときに、人は苦しみから

遠ざかり離れる。

これこそ人が清らかになる道である。

            「ダンマパダ」二七三―二七九

諸悪莫作(しょあくまさく) もろもろの悪をなすなかれ

衆(しゅう)善(ぜん)奉行(ぶぎょう)  もろもろの善を奉行せよ

自浄(じじょう)其(ご)意(い)  自らその意を浄(じょう)めよ

是(ぜ)諸仏教(しょぶつきょう) それが諸仏の教えなり

すべての悪しきことをなざず、善いことを行い、自己の心を浄めること。

これが諸の仏の教えである。

「ダンマパダ」一八三

我論争せず

ある人が「真理である、真実である」というところの見解をば、他の人々が「虚偽

(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」という。このようにかれらは異なった執見

をいだいて論争をする。

なにゆえにもろもろの、道の人は同一のことを語らないのであろうか。真理はひと

つであった、第二のものは存在しない。その真理を知った人は争うことがない。か

れらはめいめいに異なった真理をほめたたえている。それゆえにもろもろの道の人

は同一のことを語らないのである。

「スッタニパータ」八八三―八八四

真の仏陀は、他人に導かれるということがない。またもろもろのことがらについて

断定をして固執することもない。

これゆえに、もろもろの論争を超越している。他の教えをもっとも優れたものだと

見なすこともないからである。

「スッタニパータ」九〇七

心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直(なお)くす

る。弓師が弓の弦を直くするように。水の中の住居から引き出されて陸の上に投げ

捨てられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。

心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめるこ

とは善いことである。

心をおさめたならば、安楽をもたらす。

「ダンマパダ」三三―三五

ものごとは心にもとずき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた

心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。

車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように。

ものごとは心にもとずき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らか

な心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。

影がそのからだから離れないように。

「ダンマパダ」一―二

まだ悪の報いが熟していないあいだは、悪人でも幸福に遇うことがある。しかし悪

の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。「その報いはわたしにはこない

だろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴(したた)りおちるならば、水

瓶でもみたされるのである。愚か者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むな

らば、やがてわざわいにみたされる。

「ダンマパダ」一一九、一二一

悪魔との対話

わたしはこのように裕福で、このようにきわめて優しく柔軟であったけれども、次

のような思いが起こった、

―愚かな凡夫は、自分が老いゆくものであって、また、老いるのを免れないのに、

他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している。―自分のこ

とを看過して。じつはわれもまた老いゆくものであって、老いるのを免れないの

に、他人が老衰したのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、―

このことは自分にふさわしくないであろう、と思って。

わたくしがこのように考察したとき、青年時における青年の意気はまったく消え失

せてしまった。

「アングッタラ・ニカーヤ」

愚かな凡夫は自分は死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを

見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している――自分のことを看過して。じつ

はわれもまた死ぬものであって、死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、考

えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、――このことは自分にはふさわしくな

いであろう、と思って。わたくしがこのように考察したとき、生存時のおける生存

の意気はまったく消え失せてしまった。

「アングッタラ・ニカーヤ」

わたくしもまた、かつて正覚を得ないボーデイサッタ(さとりを得る前の仏)で

あったとき、みずからは生まれるものでありながら、生まれることがらを求め、み

ずからは老いるものでありながら、老いることがらを求め、みずからは病むもので

ありながら、病むことがらを求め、みずからは死ぬものでありながら、死ぬことが

らを求め、みずからは憂えるものでありながら、憂えることがらを求め、みずから

は汚れたものでありながら、汚れたことがらを求めていた。

「マッジマ・ニカーヤ」

わたくしがさとりをひらく以前に、まだ正覚に達していないで、求道者であったと

きに、次のように正しい智慧によって如実によく見通した。「欲望は楽しみの少な

いものであり、苦しみ多く、そこには禍がはなはだしい」ということを。

しかしわたくしは、欲望以外のところに、悪のことがら以外のところに、喜び楽し

みを体験しなかった。それえよりもさらに善きものに到達しなかった。そのかぎり

において、わたくしは欲望に魅せられないでいるといいうるのではなかった。

「マッジマ・ニカーヤ」

悪魔の出現

ネーランジャラー河のほとりにあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、

努力して瞑想していたわたくしに、悪魔ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づ

いてきて、いった。「あなたはやせていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。

あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一の割合だ。きみよ、生きよ。生き

たほうがよい。

命があてこそもろもろの善行をなすこともできるのだ。あなたがヴエーダ学生とし

ての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことがで

きる。苦行に身をやつれさせたところで、なんになろうか。つとめはげむ道は、行

きがたく、行いがたく、達しがたい。」

「スッタニパータ」四二五―四二九

「怠け者の親族よ、悪しき者よ、汝は世間の善行を求めてここにきたのだが、わた

くしにはその世間の善行を求める必要は微塵もない。悪魔は善行の功徳を求める

人々にこそ語るがよい。わたくしには信念があり、努力があり、また智慧がある。

このように専心しているわたくしに、汝はどうして生命をたもつことをたずねるの

か? はげみから起こるこの風は、河水の流れをも涸らすであろう。ひたすら専心

しているわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。

身体の血が涸れたならば、胆汁も痰も枯れるであろう。肉が落ちると、心はますま

す澄んでくる。わが念いを智慧と統一した心とはますます安立するにいたる。わた

くしはこのように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、わが心はもろも

ろの欲望にひかれることがない。見よ、心身の清らかなことを。」

「スッタニパータ」四三〇―四三五

「われは七年間も尊師(仏陀)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく

気をつけている正覚者には、つけこむ隙を見つけることができなかった。鳥が脂肪

の色をした岩石の周囲をめぐってここに柔らかいものが見つかるだろうか? 味の

よいものがあるだろうか? といって飛び廻ったようなものである。そこに美味が

見つからなかったので、鳥はそこから飛び去った。岩石に近づいたその鳥のよう

に、われらは厭(あ)いてゴーダマを捨て去る」

「スッタニパータ」四四六―四四八

苦行を超える

わたしはこのように聞いた。

あるとき尊師は、ネーランジャラー河の岸辺で、ウルヴエーラー村において、アン

ジャパーラという名のニグローダ(バニャン)樹の根もとにとどまっておられた。

さとりをひらかれたばかりのときであった。…  さて尊師がひとり静かに座して

瞑想しておられたときに、次のように思われた。

――「わたくしは、もはや苦行から解放された。わたくしが、あのためにならぬ

苦行から解放されたのは、よいことだ。  尊師のもとで、この詩句をとなえた。

わたくしが安住し、心を落ち着けて、さとりを達成したのは、よいことだ」と。

そのとき悪魔・悪しき者は、尊師が心で思われたことを知って、尊師のところにお

もむいた。近づいてから、尊師に詩をもって語りかけた。

「人々は苦行によって清められるのに、その苦行の実行から離れて、清浄に達する

道を逸脱して、清くない人が、みずから清しと考えている」と。

そこで尊師は、「この者は悪魔・悪しき者なのだ」と知って、悪魔・悪しき者に、

次の詩を持って答えた。

「不死に達するための苦行なるものは、すべてためにならぬものであると知って、

―― 乾いた陸地にのり上げた船の舵や艫(とも)のように、まったく役に立たぬもの

である。さとりにいたる道――戒めと、精神統一と、智慧と――を修めて、わたく

しは最高の清浄に達した。破滅をもたらす者よ、おまえはうち負かされたのだ。」

「サンユッタ・ニカーヤ」

所有への執着

そのとき悪魔・悪しき者は尊師に近づいた。近づいてから

「子あるものは子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の喜び

は、執着するよりどころによって起こる。執着するよりどころのない人は、実に、

喜ぶことがない。」

尊師いわく――

「子ある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。人間の憂いは執着

するところによって起こる。

実に、執着するよりどころのない人は、憂うることがない。」

「サンユッタ・ニカーヤ」

「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしす

でに自己が自分のものではない。

ましてどうして子が自分のものであろうか。

どうして財が自分のものであろうか。

「ダンマパダ」六二

空の鉢

そのとき悪魔・悪しき者は、尊師に近づいた。近づいてから

尊師に次のようにいった。

――「修行者よ。施しの食物を得たかね?」

「悪しき者よ、わたくしが施しの食物を得ないように、お前がそうさせたのではな

いか。」

「では、尊いお方! パンチャサーラー村に再び入って行き

なさい。尊師が施しの食物を得られるように、わたしははからいましょう。」

「悪魔は、如来を襲うという禍をかもし出した。悪しき者よ。そなたは何を考えて

いるのだ? わたしには、禍の報いは起こらない。われらは、何物をももってはい

ないが、さあ、大いに楽しく生きて行こう。光輝く神々のように、

喜びを食む者となるだろう。」

「サンッユタ・ニカーヤ」

政治への誘惑

或るとき尊師は、コーサラ国のうちの雪山地方において、森の庵にとどまっておら

れた。

さて尊師がひとり静かに瞑想しておられるとき、心にこのような考えが起こった。

――「殺すことなく、殺さしめることなく、勝つことなく、勝たしめることなく、

悲しむことなく、悲しませることなく、法によって統治をなすことができるであろ

うか?」

そのとき悪魔・悪しき者は、尊師が心に考えられたことを知り、尊師に近づいた。

近づいてから、尊師にこのようにいった。

――「尊いお方! 尊師は、四つの不思議な霊力(四神足)を修し、……みごとに

なしとげた。尊師がもしも、山の王・雪山を黄金にしょうと望み、そのように決意

されるならば、山は黄金となるであろう。」

尊師いわく、――

「黄金や銀の山があったとしても、またそれを二倍にしても、それだけでは、一人

の人を満足させることはできない。

このことを知って、平らかな心で行うべし。

苦しみと苦しみの起こるもとを見た人は、どうして欲情に傾くであろうか。世間に

おける制約は束縛であると知って、人はそれを制しみちびくために修学すべし。」

「サンユッタ・ニカーヤ」

求道の心

「この教えは厭離(おんり)におもむかず、離欲におもむかず、止滅におもむかず、

安におもむかず、英智におもむかず、正覚におもむかず、安らぎにおもむかない。

ただ無所有処を獲得しうるのみ」と。そこでわたくしはこの教えを尊重せず、この

教えにあきたらず、出で去った。

「マッジマ・ニカーヤ」

ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想い

を消滅した者でもない。――このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろ

がりの意識は、想いにもとずいて起こるからである。

「スッタニパータ」八七四

そのとき悪魔・悪しき者は尊師に近づいた。近づいてから、尊師に向かって、詩を

以て語りかけた。

――「かけ廻るこのこころは、虚空のうちにかけられたわなである。そのわなによ

って、そなたを縛ってやろう。修行者よ。そなたはわたしから逃れることはできな

いであろう。」

尊師いわく、――

「快く感ぜられる色かたち、音声、味、香り、触れられるもの、――これらに対す

るわたしの欲望は去ってしまった。

そなたは打ち負かされたのだ。破滅をもたらす者よ。」

「サニュッタ・ニカーヤ」

成道のいきさつ

またわたくしは一日に一食を摂り、あるいは二日に一食を摂り、……七日に一食を

摂った。わたしは半月に一食を摂るにいたるまで、定期的食事の修行に従事してい

た。わたくしは野菜のみを食し、あるいは稷(きび)のみを食し、あるいは……また

わたくしは森の樹の根や果実を食し、あるいは自然に落ちた果実を食して暮らして

いた。

「マッジマ・ニカーヤ」

またわたくしは、父なるサッカ(シュッドーダナ王)が政務を行っているときに、

畦道のジャンブ樹陰にすわって、欲望を離れ、悪のことがらを離れ、粗なる思慮

微細な思慮ある、遠離から生じた喜楽である初禅を成就していたのをよく覚えて

いる。――これがじつにさとりにいたる道であろう、と思って。

「マッジマ・ニカーヤ」

その少食のためにわたくしの肢(あし)節(ぶし)は、アーシーテイカ草の節またはカー

ラー草の節のようになった。その少食のためにわたくしの臀部(でんぶ)は駱駝(らく

だ)の足のようになった。その少食のためにわたしの脊髄は紡錘(ぼうすい)の連鎖の

ように凸凹あるものとなった。その少食のために、たとえば老朽家屋の桷が腐触し

破れているように、わたくしの助骨は腐触し破れてしまった。その少食のために、

たとえば深い井戸における水の光が深くくぼんで見えるように、わたくしの眼にお

ける瞳の光は深くくぼんで見えた。その少食のために、たとえば生のうちに切り取

られた若い瓜が風や熱によって萎縮してしまうように、わたくしの頭皮も皺がよっ

て萎縮してしまった。

そこでわたくしは、腹皮に触れようとすると、脊髄をとらえてしまい、脊髄に触れ

ようとすると、腹皮をとらえてしまった。その少食のために、わたくしの腹皮なる

ものは、脊髄に密着してしまった。

「マッジマ・ニカーヤ」

初夜の偈

努力して思念しているバラモンに、もろもろの理法(ダンマ)が現われるならば、かれの疑惑はすべて消滅する。

原因との関係をはっきりさせた縁起の理法をはっきりと知っているからである。

中夜の偈

努力して思念しているバラモンに、もろもろの理法が現われるならば、かれ

の疑惑はすべて消滅する。

もろもろの縁の諸滅をはっきりと知ったのであるから。

後夜の偈

努力して思念しているバラモンに、もろもろの理法が現われるならば、かれは悪魔

の軍勢を粉砕しているのだ。

あたかも太陽が天空を輝かすようなものである。

「ウダーナ」

縁起の観想

あるとき世尊は、ウルヴエーラー村、ネーランジャラー河の岸辺に、菩提樹のもと

におられた。はじめてさとりを開いておられたのである。そのとき世尊は、七日の

あいだずっと足を組んだままで、解脱の楽しみを享けつつ、座しておられた。とき

に世尊は、その七日がすぎてのちにその瞑想からでて、その夜の最初の部分におい

て、縁起の理法を順の順序に従ってよく考えられた。

「これがあるときにこれがある。これが生起するからこれが生起する。すなわち、

無明によって生活作用があり、名称と形態とによって六つの感受機能があり、六つ

の感受機能によって対象との接触があり、対象との接触によって感受作用があり、

感受作用によって妄執があり、妄執によって執着があり、執着によって生存があ

り、生存によって出生があり、出生によって老いと死、憂い、悲しみ、苦しみ、愁

(うれ)い、悩みが生ずる。このようにしてこの苦しみのわだかまりがすべて生起す

る。」

「ウダーナ」

すなわち、「これが無いときには是が無い。これが消滅するからこれが消滅する。

無明を止滅するならば、生活作用が止滅する。識別作用が止滅するならば、名称と

形態とが止滅する。名称と形態とが止滅するならば、六つの感受機能が止滅する。

六つの感受機能が止滅するならば、対象との接触も止滅する。対象との接触が止滅

するならば、感受作用も止滅する。感受作用が止滅するならば、妄執も止滅する。

妄執が止滅するならば、執着も止滅する。執着が止滅するならば、生存も止滅す

る。生存が止滅するならば、出生も止滅する。出生が止滅するならば、老いと死、

憂い、悲しみ、苦しみ、愁い、悩みも止滅する。このようにしてこの苦しみのわだか

まりがすべて止滅する。」と。

「ウダーナ」

その他の伝承

「眼の耽溺(たんでき)とはなにであるか? 患(わずら)いはなにであるか? 耳

の……、鼻の……、舌の……、身の……、意の耽溺とはなにであるか? 患いはな

にであるのか? 出離はなにであるか?」と。

そのときわたくしはこのように思った。「眼を縁として快楽と喜悦とが起こるこ

と、――これが眼の耽溺である。眼が無常であり、苦しみであり、変滅する本性を

もっていること、――これが眼の患いである。眼に対する欲望と貪着(とんちゃく)と

を制すること、欲望と貪着とを断ずること――これが眼の出離である。耳を縁とし

て……、鼻を縁として……、舌を縁として……、身を縁として……、意を縁とし

て……、」

「サンッユタ・ニカーヤ」

樹下の瞑想

あるとき尊師はウルヴエーラーのネーランジャラー河のほとりで、アンジャパーラ

榕樹(ゆうき)のもとに住しておられた。さとりを開いてまもないときのことであっ

た。

そのとき尊師は、ひとり足を組んだままでおられたが、心にこのような思いが起

こった、――「尊敬すべきものがなく、従うべきものがないありさまは苦しい、わ

たくしはいったいどのような修行者またはバラモンを尊敬し、敬い、たよっていっ

たらよいのだろうか?」

「サンッユタ・ニカーヤ」

「わたくしはこの法(ダンマ)をさとったのだ。わたくしはその法を尊敬し、敬

い、たよっているようにしよう」と。

そのとき世界の主、梵天は、……梵天界から消えうせて、尊師の前にあらわれ

た。……尊師に向かって合掌して、このようにいった、――

「尊師よ。そのとおりです。幸ある人よ。そのとおりです。尊い人よ。過去世に、

拝まれる人、正しくさとった人、尊師であった方々も、ただ法のみを尊敬し、敬

い、たよっておられました。また未来世においた、……拝まれる人、正しくさとっ

た人である尊師もまた、たさ法のみを尊敬し、敬い、たよっておられませ」と。

「サンッユタ・ニカーヤ」

満足して、教えを聞き、真理を見るならば、孤独は楽しい。人々に対して害心な

く、生きとし生きるものに対して自制するのは、楽しい。世間に対する貪欲を去

り、もろもろの欲望を超越することは楽しい。おれがいるのだという慢心を制する

ことは、じつに最上の楽しみである。

「ウダーナ」

二人の商人は、……世尊の両足に頭をつけて礼拝し、世尊にこのようにいった、

――「尊いお方よ。こうしてわれわれは世尊と教えとに帰依いたします。尊師さ

ま。われわれを在俗信者(ウパーサカ)としてお認めください。今日から命の終

るまで帰依いたします」と。かれらはこの世においてはじめてブッタと教えとの二

つに対する帰依を唱えた在俗信者であった。

「律蔵」

梵天勧請(かんじょう)

あるとき尊師は、ウルヴエーラーで、ネーランジャラー河の岸辺で、アンジャパー

ラという名の榕樹(ゆうき)の根もとにとどまっておられた。はじめてさとりを開かれ

たばかりのときであった。そのとき尊師は、ひとり隠れて、静かに瞑想に耽(ふけ)っ

ておられたが、心のうちにこのような考えが起こった。

「わたくしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙

であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。……だか

らわたくしが理法(教え)を説いたとしても、もしも他の人々がわたくしのいうこ

とを理解してくれなければ、わたくしには疲労が残るだけだ。わたくしには憂慮が

あるだけだ」と。

……「苦労してわたくしがさとりを得たことを、いま説く必要があろうか。貪り

憎しみにとりつかれた人々が、この真理をさとることは容易ではない。これは世の

流れに逆らい、微妙であり、深遠で見がたく、微細であるから、欲を貪り闇黒に覆

われた人々は見ることができないのだ」と。

「サンッユタ・ニカーヤ」

ああ、この世は滅びる。ああ、この世は破滅する。じつに修行を完成した人・尊敬

されるべき人・正しくさとった人の心が、何もしたくないという気持ちに傾いて、

説法しようとは思われないのだ!」……

――「尊いお方!尊師は教え(真理)をお説きください。幸ある人は教えをお説き

ください。この世には生まれつき汚れの少ない人々がおりましょう。かれらは教え

を聞かなければ退歩しますが、聞けば真理をさとる者となりましょう」と。

「サンッユタ・ニカーヤ」

「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた、おのが信仰を捨てよ」

「サンッユタ・ニカーヤ」

法輪を転ず

そこでわたくしはまた次にのように考えた、――「わたくしはまず最初にだれに対

して教えを説くべきであろうか。

……さあ、わたくしはまず最初に五人の修行者の群れに教えを説こう」と。

……「そもそも五人の修行者の群れはいまどこにいるのであろうか」と。わたくしは

清浄で超人的な天眼をもって五人の修行者の群れがバーラーナシー(=ベナレス)の

仙人の住処・鹿の園のうちに住んでいるのを見た。

そこでわたくしは……バーラーナシーに向かって遊歩の歩みを進めた。

「マッジマ・ニカーヤ」

さてわたくしは順次に遊歩して、ベナレス・仙人の住処・鹿の園なるところに、五

人の修行者の群れのいるとこるにおもむいた。五人の修行者の群れは遥かにわたく

しがくるのを見た。見て相互に約束していった、――「君よ、道の人ゴータマがあ

そこにやってくる。贅沢で、つとめはげむのを捨て、豪侈(ごうおご)におもむいた。

かれに挨拶すべきではない。起(た)って迎えてはならない。かれの衣鉢(えはつ)を受

けてはならない。しかし座を設けてやらねばなるまい。もしかれが欲するならば、

坐し得るように」と。

ところがわたくしが近づくにつれて、五人の修行者の群れは、自分らの約束で制す

ることができなかった。ある者どもはわたくしを出迎えて衣鉢を受け取った。また

ある者どもは座を設けた。またある者どもは洗足(せんぞく)の水を用意した。

「マッジマ・ニカーヤ」

修行者らよ。

……如来は尊敬されるべき人、正覚者である。修行者ども、耳を傾けよ。不死が得

られた。わたくしは教えるであろう。わたくしは法(ダンマ)を説くであろう。

汝らは教えられたとおりに行うならば、久しからずして、良家の子らが正しく家か

ら出て出家者となった目的である無上の清浄行の究極を、この世においてみずから

知り、証し、体現するにいたるであろう。

「マッジマ・ニカーヤ」

何を説いたか

修行者らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある。

……一つはもろもろの欲望において欲楽に耽ることであって、下劣(げれつ)、野卑

(やひ)で凡愚(ぼんぐ)の行いであり、高尚ならず、ためにならぬものである。他の一

つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬも

のである。

真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道をさとったのである。……

「サンユッタ・ニカーヤ」

四つの真理

修行僧らよ、心理の体現者のさとった中道とは……それはじつに聖なる八支よりな

る道である。すなわち、正しい見解、正しい思(し)惟(い)、ただしいことば、正しい

行い、正しい生活、正しい努力、正しい念(おも)い、正しい瞑想である。……

じつに苦しみという聖なる心理は次のごとくである。生まれもい苦しみであり、老

いも苦しみであり、病も苦しみであり、死も苦しみであり、……。

じつに苦しみの生起の原因という聖なる真理は次のごとくである。それはすなは

ち、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求めるこの妄執

である。……

じつに苦しみの止滅という聖なる真理は次のごとくである。それはすなはち、その

妄執の完全に離れ去った止滅であり、……。じつに苦しみの止滅にいたる道という

聖なる真理は次のごとくである。これはじつに聖なる八支よりなる道である。すな

わち、正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正し

い努力、正しい念い、正しい瞑想である。

「サンユッタ・ニカーヤ」

――「およそ生起する性なるものは、すべて滅び去る性あるものである」と。

コンダンニャが悟ると……そのとき世尊はこのよな感歎(かんたん)のことばを発

せられた。

「ああ、コンダンニャはさっとたのだ! 

ああ、コンダンニャはさっとたのだ!」と。

それゆえに尊者コンダンニャをば、さとったコンダンニャと名づけるようになっ

た。

「サンユッタ・ニカーヤ」

非我を説く

そこで世尊は五人の修行僧の集いに説かれた。「修行僧らよ。色(物質的なか

たち)は我(アートマン)ならざるものである。もしもこの色が我であるならば、こ

の色(肉体)は病にかかることはないであろう。また色について『わが色(肉体)

はこのようであれ』『わが色(肉体)はこうあることがないように』となすことが

できないのである。

修行僧らよ。汝らはどのように考えるか。色は常住であるか、あるいは無常である

か。」

「色は無常であります。尊いお方よ。」

「では無常であるものは苦しいか、あるいは楽しいか。」

「苦しいのであります。尊いお方よ。」

「では無常であり苦しみであって壊滅する本性のあるものを、どうして『これはわ

がものである』『これはわれである』

『これはわが我(アートマ)である』と見なしてよいだろうか。」「よくありませ

ん。尊いお方よ。」……

「感受作用は……表象作用は……形成作用は……識別作用は……」

「サンユッタ・ニカーヤ」

伝道の旅に出る

修行僧らよ、わたくしは、天界のものでも人間のものでも、一切の束縛から解脱し

た。汝らもまた、天界のものでも人間のものでも、一切の束縛から解脱した。歩み

を行え、衆人の利益のために、衆人の安楽のために、世人に対する同情のために、

神々と人間との利益安楽のために。多くの人々に教えを説き示すために、二人して

一つの道を行くことなかれ。

始めよく、中ごろよく、終りもよく、理と文とそなわった教えを説け。……われも

またウルヴエーラーなるセーナー村におもむこう、――教えを説くために」

「サンユッタ・ニカーヤ」

たとえば、清らかで汚点のない布が完全に染めあがるように、良家の子ヤサにはそ

の場において塵なく汚れのなくなった真理を見る眼が生じた。――「およそ因縁に

よって集まり生起する性あるものは、みな滅する性あるものである」と。

「律蔵」

「尊いお方よ。わたしは尊師のもとで出家し、受戒したいのです」と。尊師はいっ

た、

「来たれ、修行僧よ。教えはよく説かれた。苦しみをまったく終滅するために清ら

かな修行を行え」と。

これがかの尊者ヤサの受戒であった。そのとき、この世に真人は七人になったので

ある。

「律蔵」

そこで尊師は修行者らに告げられた。「修行者よ。すべては燃えている。すべては

燃えているというのはどういうことなのか? 眼は燃えている。色形(いろかたち)

(眼で見える対象)は燃えている。眼の識別作用は燃えている。眼と色形と識別作用と

の接触は燃えている。眼の接触によって生じる感受は、快であろう、不快であろう

と、いずれでもないものであろうと、それも燃えている。なにによって燃えている

のであるか?

貪欲の火によって、嫌悪の火によって、迷いの火によって燃えている。誕生・老

衰・憂い・悲しみ・苦痛・悩み・悶えによって燃えているのだ、とわたくしは説く

のです。

「律蔵」大品

人間のありよう

見よ。見まもっている親族がとどめなく悲嘆に暮れているのに、人は一人ずづ、屠

所(としょ)に引かれる牛のように連れ去られる。            

「スッタニパータ」五八〇

この世における人々の命は、定相なく、どれだけ生きられるかわからない。惨(いた)

ましく、短くて、苦悩に繋がれている。

生まれたものどもは、死を遁(のが)れる道がない。老いに達しては、死がくる。じつ

に生あるものどもの定めは、このとおりである。

「スッタニパータ」五七四・五七五

たとえば陶師(とうし)のつくった土の器がついにはすべて破壊されてしまうように、

人々の命もまたそのとおりである。

「スッタニパータ」五七七

欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるな

らば、かれは、矢に射られたかのように、悩みくるしむ。

「スッタニパータ」七六七

妄執を友としている人は、この状態からかの状態へとながいあいだ流転し、輪廻を

超えることができない。

「スッタニパータ」七四〇

人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。

自己の所有しているものは常住ではないからである。

この世のものはただ変滅するものである、……

「スッタニパータ」八〇五

人が「これはわがものである」と考える物、――それはその人の死によって失われ

る。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈

してはならない。

「スッタニパータ」八〇六

見よ。神々ならびに世人は、非我なるものを我と思いなし、(名称と形態)(固

体)に執着している。「これこそ真理である」と考えている。

「スッタニパータ」七五六

苦について

楽(快楽)であろうと、苦(不快感)であろうと、非苦非楽であろうとも、内的に

も外的にも、感受されたものはすべて、「これは苦しみである」と知る。

「スッタニパータ」七三九

人々がいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊れて消え

去るのは、このとおりである。世の成りゆくさまを見よ。

「スッタニパータ」五八八

人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。

自己の所有したものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅すべきも

のである。

「スッタニパータ」八〇五

生も苦しみである。老も苦しみである。病も苦しみである。

死も苦しみである。すべて欲するものを得ないことも苦しみである。要約していう

ならば、五種の執着の素因(五取蘊(ごしゅうん))は苦しみである。

「律蔵」

妄執の源

わたくしは、牽引(けんいん)するもののことを貪欲、ものすごい激流と呼び、吸い込

む欲求と呼び、捕捉と呼び、超えがたい欲望の汚泥であるともいう。

「スッタニパータ」九四五

かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、死時には

苦しみにおそわれて悲嘆する、

――「ここで死んでから、われらはどうなるのであろうか」と。

「スッタニパータ」七七四

この世の人々が、もろもろの生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わ

たくしはみる。下劣な人々は種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して

泣く。

「スッタニパータ」七七六

無明について

修行僧たちよ、衆生は、初めのない久遠の昔から、無明に覆われ、渇愛(妄執)に

縛られ、流転し輪廻しているその本際は知ることができない。

南伝大蔵経「相応部経典」一五―一

ブッタ「皆の衆、このことをどう思うか。四つの大海の水と、今までの長い長い過

去世において愛しいものと別れて流した涙と、どちらが多いであろうか。」

修行僧「世尊よ、わたしたちは世尊の教えによって、かって長い長い過去世に流し

た涙の量は、四つの大海よりも、もっと多いと知っております」

ブッタ「善いかな修行僧たちよ。善いかな。汝らはよくそのことを知っていた。修

僧たちよ、汝らが、母の死にあい、子の死にあい、娘の死にあい、同族の死に

あった流した涙は、その長い長い流転輪廻の間に、はかり知れない量となって、四

つの大海をもってしても、較べることができないのである。」

南伝大蔵経「相応部経典」一五―三

欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくな

るならば、かれらは、矢に射られてように、悩み苦しむ。

それゆえに、人はつねによく気をつけていて、もろもろの欲望を回避せよ。舟のた

まり水を汲みだすように、それらの欲望を捨て去って激しい流れを渡り、彼岸に到

達せよ。

「スッタニパータ」七六七・七七一

神はいった

「世間はなにものによって導かれるにか。なにものによって悩まされるのか。いか

なるひとつのものに、一切のものが従属したのであるか。」

尊師はいった

「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執というひと

つにものに、一切のものが従属した。」

「サンユッタ・ニカーヤ」

ほしいままのふるまいをする人には愛執が蔓草(つるくさ)のようにはびこる。林の

なかで猿が果実(このみ)を捜し求めるように、この世からかの世へとあちこちにさま

よう。

この世において執着のもとであるこのうずく愛欲のなすがままである火とは、もろ

もろの憂いが増大する。

――雨が降ったあとにはビーナラ草がはびこるように。

「ダンマパダ」三三四・三三五

人は不浄の皮袋

身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて、

ありのままに見られることがない。

身体は腸に充ち、胃に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・賢臓・膵臓あり、鼻

汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・

膏(あぶら)がある。また九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは目や

に、耳からは耳垢、鼻からは鼻汁、口からはあるときは胆汁を吐き、あるときは痰

を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。

またその頭(頭骸骨)は空洞であり、脳髄に充ちている。しかるに愚かな者は無明

に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。

また身体が死んで臥(ふ)すときには、膨(ふく)れて、青黒くなり、墓場に棄てられ

て、親族もこれを顧(かえり)みない。

人間のこの身体は、不浄で、悪臭を放ち、花や香を以ってまもられている。種々の

汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。

このよな身体をもちながら、自分は偉いものだと思い、また他人を軽蔑するなら

ば、かれは見る視力が無いという以外の何だろう。

「スッタニパータ」二〇五―二〇六

死を超越する

学生メッタグーの質問

「先生! あなたにおたずねします。このことをわたしに説いてください。あなた

はヴエーダの達人、心を修養された方だとわたくしは考えます。世の中にある種々

様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現れ出でたのですか。」

師(ブッタ)は答えた、

「メッタグーよ。そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。わたしは知

り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。世の中にある種々様々な苦しみは、

執着を縁とし生起する。……苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(執

着)をつくってはならない。」

「スッタニパータ」一〇四九―一〇五一

学生ヘーマカの質問

「聖者さま、あなたは、妄執を滅しつくす法をわたしにお説きください。それを

知って、よく気をつけて行い、世間の執着を乗り越えましょう。」

ブッタが答えた、

「ヘーマカよ、この世において見たり聞いたり考えたり識別した快(かい)美(び)な事

物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴアーナの境地である。」

「スッタニパータ」一〇八四―一〇八

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