読 ん 得 ・ 知 っ 徳
ワード・フリーハンド絵画
あたりまえの素晴らしさ
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仏教や宗教などと言いますと「私は信じません」とか「関係ありません」とか
「私には必要ありません」とかおっしゃる方がいますが、仏教が「法」と言って
いるものは、この世はどのようにあるのかという、世界のあり方を明らかにした
ものであって、信じるとか信じないとか、関係があるとかないとか、必要だとか
必要ないとか、そういうことを超えた、あたりまえの教えであると言えます。
道元禅師の、京都の興聖寺(こうしょうじ)での最初の説法は、まさに、
このことを説かれたものであると思われます。
「眼は横に、鼻は縦に付いている。太陽は東から昇り、夜明けになると鶏が鳴く。
そのほかに特別な教えはないのだ」ということです。
この説法は、道元禅師の初めての正式なかたちでの説法でありましたから、
集まった者たちは、何か特別なありがたい教えを聞けると思って聞き入っていたで
ありましょうが、もしかすると期待はずれのものであったかもしれません。
私たちは、とかく特別なものを求めます。
特別なもののなかに素晴らしさを感じます。
坐禅して空中に浮いたり、スプーンを曲げたりすることに驚き、関心を持ちます。
そのような超能力を得ようと思って、真剣に修行している若者もいます。
禅の世界にも神通(いわゆる超能力)ということがありますが、それは、
特別なことではありません。
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ある禅の師匠は、朝起きて顔を洗いたいと思っていたところへ、気を利かせて
水桶と手ぬぐいを持ってきた弟子や、顔を洗い終わって茶を飲みたいと思ってい
たところへ、お茶を持ってきた弟子をほめて、おまえたちには素晴らしい
超能力がある、と言っています。
禅でいう超能力とは、このようなことであり、あたりまえの日常において、
その現実の状況をしっかりと見つめ、智慧を働かせて相手の気持ちを察して、
行動することであると言えます。
中国から、禅という何か未知の新しい教えを聞けると期待して集まってきた
人々もいると思われますが、あたりまえのことをあたりまえに説く道元禅師の説法
を聞いて、逆に、禅とはそういうものかと、大いにカルチャーショックを受けた
人たちもいたかもしれません。
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角田泰隆著 禅のすすめ 道元のことば
投稿 2018 10 28
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二宮尊徳翁の訓 え
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人道とは己にうち克つ こと
師はこういわれた。
天理と人道の区別をよくわきまえている人は少ない。
身体があれば欲があるのは天理である。田畑に雑草が生じるのと同じである。
堤は崩れ堀は埋まり橋は朽ちる、これが天理である。それゆえ人道は私欲を制する
のを道とし、田畑の雑草を取り除くことを道とし、堤を築き、堀をさらい、橋を掛
け替えるのを道とする。
このように、天理と人道はまったく別のものだから天理は永遠に変わることなく、
人道は一日怠ればたちまち廃れてしまう。それゆえ人道は勤めることを尊しとし、
自然にまかせるのを尊ばない。
人道で勤めるべきは、己にうち克つという教えなのである。己とは私欲のことだ。
私欲は田畑にたとえれば草である。うち克つというのは、田畑に生える草を取り捨
てることだ。己にうち克つということは、わが心の田畑に生ずる雑草を取り捨て
て、わが心の米麦を繁茂させる勤めのことだ。これを人道という。
『論語』に、「己にうち克って礼の規則にたちかえる」、この勤めのことである。
人道の罪人
師は常にこういわれた。
人の世あって、屋根の漏れるを座視て、道路のこわれるのを傍観し、橋の朽ちるの
を心配しないものは、すなわち人道の罪人である。
投稿 2014 06 16
自分を振り返ってみよ
若者が数人いた。彼らを諭して師はこういわれた。
世の中の人を見るがよい。一銭の柿を買うにも、二銭の梨を買うにも、芯のまっす
ぐな傷のないのを選んで取るではないか。
また茶碗一つ買うにも、色のよい形のよいのを選んで、なでたり、鳴らして音を聞
いたりして、*選りによっているではないか。
世の人たちはみんなそんなものだ。柿や梨は買っても、悪ければ捨てればよい。こ
いうものさえこうなのだ。
だから人に選ばれて婿となり嫁となるもの、あるいは仕官して立身を願う者は、そ
の身に傷があっては人が取らないのは当然である。
自分に傷が多いのに、上の人が取ってくれなければ、上に人を見る眼がないなどと
悪口をいい、とがめるのは大きな間違いだ。
自分を振り返って見よ。必ず自分の身に傷があるはずだ。人の身の傷とは何か。
たとえば酒が好きだとか、酒の上が悪いとか、*放蕩だとか、勝負事が好きだと
か、*惰弱だとか、無芸だとか、何か一つや二つは傷はあるだろう。
買い手がないのは当然だ。これを柿や梨にたとえれば、芯が曲がって渋そうに見え
るのと同じだ。
人が買わないのも無理もない。そこをよくよく考えるべきだ。
古語に、「内容がしっかりしていれば必ず外にあらわれる」とある。
傷がなくまっすぐな柿が売れないということはありえない。
どんなに草深いところでも山芋があれば、人はすぐに見つけ出して取ってしまう。
また泥深い水中に潜伏しているうなぎやどじょうにしても、必ず見つけ出して捕ら
えてしまう世に中である。
だから、内に誠があって外にあらわれない道理はない。
この道理をよく心得て、身に傷がないように心がけなさい。
*選りに よりに
*放蕩 ほうとう ほしいままにうるまうこと
*惰弱 だじゃく なまけて弱いこと
投稿 2013 12 27
権兵衛の種蒔き
師はこういわれた。
怠慢の風がきわまって、悪習に深く染まった村里を新しくするのは、たいそうな難
しい仕事だ。
なぜなら法で戒めることもできず、命じても行われず、教えも施しようがない。
そいう村の人を勤勉に向かわせ、正しい方向に導くのはまことに困難だ。私が昔、
桜町に来たとき、配下の村々は極度の悪習に染まって、いかんともしがたい状態であった。
そこで私は深夜あるいは未明に、村里をめぐり歩いた。
怠けているのを戒めるでもなく、朝寝を戒めるためでもない。善い悪いを問わず、
勤勉怠惰をいわず、ただ私自身の勤めとして、寒暑風雨の日でも怠らなかった。
一、二ヶ月経つと、はじめて足音に驚く者が出てきたり、また足跡を見て怪しむ者
もあり、またばったり出会う者もあった。それから次第に反省の心が生じ、畏れの
心も抱きようになって、数ヶ月で、夜遊び、博打、喧嘩はもちろん、夫婦の間や奴
僕(ぬぼく)の交わりにも、叱ったりののしったりする声を聞かなくなった。
ことわざに、
「権兵が種を蒔けば烏これを掘る。三度に一度は追わずになるまい」という。
これは田舎の*戯言(ぎげん)だといっても、役所にある者はぜひ知っておかなけ
ればならない。だいたい烏が田んぼを荒らすのは烏の罪ではない。田んぼを守る者
が追わないのが過ちなのだ。
政道を犯す者があるのも、官がこれを追わないための過ちだ。この場合も、権兵衛
がただひたすら追うことを勤めとして、捕らえることを目的としなかったようにあ
りたいものだ。
この戯言は政治の真の目的にかなっている。田舎の言葉といっても、心得ておかな
ければいけない。
* 戯言 たわむれの言葉。ざれごと。
投稿 2013 11 10
運は因果応報の道理
師はこういわれた。
世の人は、運ということについて心得違いをしている。
たとえば柿や梨を籠からあけたとき、自然と上になったり、下になったりする。
上を向くものもあれば、下を向くものもある。
こういうことを運だと思っている。
運というものがこんなものなら、頼むに足らない。
なぜならば人事を尽くしてそうなるのではなく、偶然になるのだから。
柿や梨を再び籠に入れ直してあければ、みな前とは違うだろう。
これは博打の類であって、運とは異なる。
運というのは、運転の理であり、いわゆるめぐり合わせのことである。
そもそも運転とは世界の運転に基づき、天地の定規があるから、「*積善の家には
余分の喜びがあり、不善を積んだ家には、余分の憂いがある」ということになる。
これは、いくたび世界が旋転しょうとも、この定規から外れずにめぐり合わせるこ
とをいう。
よく世の中にあることだが、提灯の火が消えたために禍をまぬがれたとか、履物の
緒が切れたために災害を逃れたなどというのは、偶然ではなくて真の運であり、仏
教にいう因果応報の道理なのだ。
儒教で、「積善の家には余分の喜びがあり、不善を積んだ家には余分の憂いがあ
る」というのは、天地を貫く定めであり、古今に通じる格言だが、これは仏理によ
らないと判然としない。
仏教には*三世の説がある。
この三世を見通さなければ、儒教の理も疑いがもたれることになる。
疑いがひどいと天を怨み人を怨むことになる。
三世を見通せばこの疑いはなくなり、雲や霧が晴れて晴天を見るごとく、みな自業
自得であることを知る。
それゆえ仏教は三世の因縁を説くので、ここが儒教の及ばないところである。
いまここに一本の草がある。
現在は若草だが、過去を悟れば種である。
未来を悟れば花が咲き実りがある。
茎が高く伸びているのは肥料が多い因縁であり、茎が短いのは肥料の少ないことの
応報だ。その理は三世を見れば明白である。
人はこの因果応報の理を仏説というようだが、これは書物上の議論だ。
これを私流の*不書の経によって考えれば、釈迦がまだこの世に生まれない昔から
行われている天土間の真理だ。
不書の経とは、私の歌に、
声(おと)もなく臭(か)もなく常に天地(あまつち)は
書かざる経を繰り返しつつ
とあるように、四季休みなく行われ、万物が完成するところの真理をいうのだ。
この経を見るには、肉眼を閉じ、心眼を開いて見なければならない。
そうしなければ見えない。
肉眼で見えないというわけではないが、徹底しないのだ。
因果応報の理は、米を蒔けば米が生え、瓜のつるに茄子がならない理屈で、この理
は天地開闢以来営々とつづき、今日にいたっても少しも違いはない。
日本だけではなく、万国すべて同じである。だから天地の真理であることは、説明
しなくても明らかだ。
声もなく 臭もなく 常に天地は
書かざる経を 繰り返しつつ
* 積善の家
「易教」文言伝にある。善行を積み重ねた家では、その福慶の余沢が必ず子孫に及び、不善を積み重ねた家では、
その災禍が必ず子孫に及ぶという意味。
* 三世の説
三世因果の説のこと。過去、現在、未来の三世にわたって因果応報の理は貫徹するという釈迦の教え。
すな わち、現世の運、不運は前世の行いの善悪によって来世の幸、不幸が生ずるということ。
* 不書の経
不書の経文。文字で書いていない経典。大自然、生きた世界のこと。
投稿 2013 11 09
小事を嫌って大事を望む者に成功はない
師はいわれた。
世間の人は、とかく小事を嫌って大事を望むけれども、本来、大は小を積んだもの
である。だから、小を積んで大をなすほかに方法はない。
いま日本国中の水田は広大無辺、無数といってよいほどである。
ところがその田地は、みんな一鍬(くわ)ずつ耕し、一株ずつ植え、一株ずつ刈り
取るのだ。その田一反を耕すのに、鍬の数は3万以上となる。
その稲の株数は、一万五千もあろう。
みんな一株ずつ植えて、一株ずつ刈り取るのだ。
その田から実った米粒は、1升(1.8リットル)で六万四千八百余粒あるし、この米
を白米にするには、一臼(うす)のきねの数は千五、六百以上になる。
その手数を考えてみるがよい。
だからして、小事をつとめねばならぬいわれが、よく知れよう。
投稿 2013 11 09
捨てたると捨てざる
師の歌に、
むかしより 捨てざるなき物を 拾い集めて民に与えん
とあるのを、山内董正(ただまさ)が見て、
「これは人の捨てたる、というべだ」といわれた。
師は次のように答えた。
捨てたるとすれば、捨てなければ捨てえないことになり、はなはだ意味が狭くな
る。また捨てたものを拾うのは僧侶の道で、私の道ではない。
古歌に、
世の人に 欲を捨てよと勤めつつ 跡より拾う寺の住職
というのがありますなといって師は笑われた。
そこで董正が「捨てざるなき物とは何ですか」と問うので、師はいった。
世の中には、人が捨てないもので、ない物は非常に多く、数えきれないほどです。
第一に荒地、
第二に借金の雑費と暇つぶし、
第三に富める者の贅沢、
第四に、貧しい者の怠慢などです。
荒地などは捨てたようなものですが、開墾しようとすると、必ず持主がいるため容
易に手をつけることができない。
これがすなわち、ない物で、捨てた物ではないのです。また借金の利息、*借替
え、*成替え、の雑費も同じ類です。
捨てたのではなく、ない物です。
そのほか富者の贅沢の出費、貧者の出費も同じです。
世の中ではこのように、捨てるものではなく廃(すた)れて無に属するものはいく
らもあるでしょう。
よく拾い集めて国家を興す資本とすれば、人々をひろく救って余りあるでしょう。
人が捨てず、しかもない物を拾い集めるのは、私の幼年からの勤める道であり、今
日にいたった原因です。
すなわち私の*仕法金の根本であります。
だからよく注意して拾い集めて世を救わなければなりません。
*借替え 成替え
借替えは借金を返済せずに再度契約を更新すること。 成替えは一度返済して再度借金をすること。
*仕法金
趣法金ともいう。仕法を行う際の資本金で、無利子で貸し付けた。
参考書 二宮尊徳翁jの訓 え
投稿 2013 11 07