随筆 限界峠を超えて

カムチャツカの真実 3

蟹工船 協宝丸の世界

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カフラン沖

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カムチャツカ  蟹工船

1970 「協宝丸」乗船

1971 「晴風丸」乗船





カムチャツカ漁場航路図

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記憶をたどり書き続ける ノンフィクション物語








カムチャツカ  蟹工船 

協宝丸の世界

函館 北洋基地

母船一船団の乗組員は、約五百名という。

船団は五社五船団。五船団とは、日魯、日水、大洋、宝幸、極洋の水産五社をいう。

その船団の乗組員が日を違えて次々に「函館発~西カムチャツカ地獄行」の切符を握りしめ、

出航を待っていた。

その行き着く先の地獄で、一番役にたたないのが金である。

たとえ持っていても何の役にも立たない。船国は、無一文であっても、暮らしていける

国なのだ。

だから函館は非情だ。

それを知っているから、多くの乗組員から多額の金を吸い取るのである。

乗組員は、乗船前に会社から支度金として、希望の額を要求できる。

わたしは十万円を送金してもらった。

半世紀前の十万円は、今と比べてどれくらいの価値になるのだろう。

その頃の二十歳の給料などまるで記憶にない。

ましてやその時代の物価など覚えているはずもない。

とにかくオイルショック前であったことは間違いない。

当時の函館歓楽街は、駅前通りの大門町である。

この歓楽街は四月と八月には、でかいガマ口を大きく開けて北洋船を待っている。

この街で働く人たちの笑顔とことばには、魔力があるという。

魔女なのだ。それがまた、美人ばかりだという。

ウ~ン。今にして思えば行って来ればよかった。

でも、もう行けはしない。貧しい年金生活者なのだ。

その頃の私は、たばこは吸っていたが、酒はダメ、夜遊びもダメ。

今もそちらのほうの進歩は見られない。

そんなわたしが、十万もの大金をいったい何に使ったのだろう。

出航時には無一文であった。

三角旗

函館港は当時、北洋基地であった。

蟹のほかに鮭鱒(けいそん)もここ函館が基地である。

函館は蟹工船だけでも経済は潤っていたはずである。

母船の燃料、乗組員の食糧、調味料、副食物だけでもものすごい金額になる。

それに、漁具・漁網関係である。

そして、独航船五隻の食糧、燃料、乗組員の飲食類など。

命かけずに金の方から入ってくるのである。函館の経済は、蟹、鮭鱒様々であったろう。

それは函館駅前全体の大歓迎ムードにあらわれていた。

函館駅前通りの両脇の街灯の下に提燈が連なる。

【祝 出港】と書かれた三角旗が賑やかに、はるか向こうまで続いていた。

乗組員家族の函館山夜景の見物と、買物もにぎやかであった。

街に繰り出す家族の雰囲気が、観光客と何となく違うのである。

にぎやかなのだけれども、華やかさにかけているのだ。

当時、函館は本当ににぎやかであった。

これが、八月になると【祝 入港】の三角旗がかかるのである。 

蟹工船は四月上旬出航し八月中旬に帰港する。四ヶ月の操業である。

漁獲量と缶詰製造数で漁期が延びることもあるが、縮まることなど絶対にありえない。

日ソ漁業交渉で妥結した数量のうちの缶詰一個の不足も認められない。

ましてや、一箱の不足など不名誉な出来事となるのである。

このカムチャツカでは絶対あってはならいことなのだ。

会社は莫大な経費をかけて、はるか遠いロスケ領海まで連れてきているのだ。

掛けている経費の額が桁外れなのである。

だから何であれ不足などということは、絶対あってはならないのだ。

当然、漁期が縮まることを期待する乗組員など一人もいない。

勿論、故郷で帰りを待っている女房もそんなことなど考えもしない。

漁期が一日延びれば一日分の給料が入ってくる。大金だ。

もう少しカムチャツカにいなさい、と女房連中はきっと思っているだろう。

それにくらべ、鮭鱒は、蟹より一ヶ月遅く出航し一ヶ月早く切り上げるのだ。

世の中、うらやましいことがたくさんあるが、鮭鱒の切り上げほどうらやましい

ものはなかった。

来年乗るンなら、鮭鱒だなぁとみんなで言っていたっけぇ。

日魯漁業 札幌支社

一九七〇年 昭和四五年 春、三月下旬。

この年の一月に二十歳になったばかりの男が、函館駅ホームに降り立った。

あの頃のわたしなら、今の二十歳の子とは比較にならないほど、ウブであった。

高校五年生といったところではないか。

そんなウブな男が、滅多に経験出来ない未知の世界の扉を、自ら押し開けようと

しているのである。

わたしは、どちらかというと考え深い人間ではない。

のほほんとしたのん気な男であった。

だから、こんな度胸がいったい自分のどこにあったのかと、考えながら汽車に乗っていた。

何のことはない、これは勇気などというものではない。

ただ、経験がないということなのだ。

その年の冬、一月であった。

父さん、オレ…、蟹工船に乗る。いいか…。と、父の許しを聞いた。

超几帳面で、超堅物で、頭から足の先まで、超真面目でできている親父が言った。

「おまえの、好きにしろ…。」

わたしはこのとき、はじめてこの父から、一人前の男に扱われたという気がした。

函館行きの汽車に乗っていた時も、ホームで立ち尽くしていた時も、

親父の声が心のなかで響いていた。

足の悪い自分を、よく船に乗せる許可を出したものだ。

観音さまのような母の顔を、横目で見ながら黙り込んでしまった。

母さん。頑張ってくっからぁ。と心のなかでつぶやく。

後は、あまり覚えていない。

ちょっと、となり街にでも行ってくるような、そんな軽い気持なのであった。

日魯

生きて

おふくろがいいました

「おまえは カラダが丈夫ではないのだよ…。

母さんの愛が足りなかったね…。」と。

おふくろは毎日 俺のことを気づかい

俺は 

おふくろの優しさのなかで

カラダを伸ばして 生きてきた

きっと おふくろの指は

血がにじむほど 祈りのために

指を組んだにちがいない

可哀想な 息子のために

悉有仏

函館駅に着いて直ぐに、蔵田氏に電話をかけた。

電話の呼びリンが鳴ったか鳴らないうちに、「ご苦労さん。」と

少しはずんだ声で蔵田氏がでた。

それから間もなくタクシーで函館駅まで迎えに来てくれた。

その日はご夫婦のご好意で一晩お世話になった。

奥さんが札幌の日魯の時には、主人が大変お世話になりまして…、と何度も若造の自分に

頭を下げていた。それを蔵田氏が満面の笑みでみていた。

そんな蔵田氏と初めて会ったのは、たしか、一九歳の秋ごろではなかったか。

当時、私は日魯漁業株式会社 札幌支社の冷蔵庫勤務であった。

支社敷地内には、支社事務所、食品工場、冷蔵庫、プレハブの研究室、

男女独身寮が建っていた。

食品工場では、ハムやカルパス、ソーセージ、魚肉ウインナーが製造されていた。

その原料関連事業としてニチロ畜産が、旧冷蔵庫内の狭い一角で肉処理を行って

いたのである。

当時、わたしは工員三級であった。同じ高卒でも事務職の女子は準社員なのである。

社員と工員とでは給料はもちろんのこと、食堂でも座る場所や食事の一部が違っていた。

採用条件が違うのかどうかは知らないが、それにしてもひどい制度であった。

支社事務所には、ワイシャツ、ネクタイ姿の大学卒が何人も行ったり来たりしている。

その容姿は季節と共に変わるのだが、わたしのなかの一抹の不安は、季節を引きずり

消えることがなかった。

自分の最終学歴も考えず、将来の不安を抱え込むいっぽうであった。

そんなある日、冷蔵庫に蟹工船を下船し、季節雇用として蔵田さんという人が働きに来た。

痩せ形で背が高目でおとなしく、無口で少し年配の人であった。

冷蔵庫は中央市場の顧客が多かったため、毎日、早朝から営業していた。

そのためにわれわれも週に何度か交代で早番があった。

早番の仕事は、前日出庫依頼を受けた荷物を出さなければならない。

市場は朝が早い。早番もその時間に合わせて、出勤しなければならないのだ。

早番の人は冷蔵庫の宿直室で宿泊するのである。

そして早朝の午前二時三〇分に起きる。

遅くとも、三時には冷蔵庫のプラットホーム・シャッターを、開けなければならない。

我々にとっては、大変つらいものでしかなかった。でも、良いこともあった。

早番の時に、工場からウインナーやカルパスのハネ品を持ってきて、よくストーブの上で

焼いて食べた。腹がすいていたので、とっても旨かったのを今でも覚えている。

だからわたしは今でも、ウインナーやカルパスが好きなのである。

そんな良さもある早番に? 蔵田氏も勤めてまもなく早番にあてられた。

その頃、蔵田氏がよく言っていた言葉がある。

これじゃ、船の方が楽だなあ…。というのだ。

将来に不安を抱え込んでいた私は、蔵田氏の話しに耳を傾けるようになった。

それが、耳から心へ伝わっていくのに、長い時間を必要としなかった。      

蔵田氏から蟹工船の話しを聞くたびに、こころは西カムチャツカの海上にあった。

何も知らない蟹工船を将来の不安解消に選択したのである。

心が西カムチャツカに大きく舵をきった。よし! 会社を退職して船に乗るぞ!

二〇歳の大冒険の決意である。

会社の人に蟹工船に乗ると言った時、全社員、全工員にバカ扱いされたものだ。

その当時、札幌支社に蟹工船経験者が二名いた。

一人はわたしの直属の上司であるが、見事に鼻で笑ってくれた。

「オメェ!なんかに、つとまらね!」少し怒鳴り口調であったのをおぼえている。

もう一人は退職を控えていた、社員食堂のコック長である。

コック長が、良い経験になるから乗りなさい、俺はあの頃が一番楽しかった

と言ってくれた。

わたしの心はコック長のことばにしがみついたのである。

コック長は函館出身で、長い間札幌ニチロに単身赴任していた。

わたしたちと同じ寮生活であった。

酒好きで女好き。三度の飯より競馬が好きな人であった。

会社は札幌競馬場が近かったため、競馬好きが多かった。

彼の着替えロッカーの半分くらいまで、ハズレ馬券が積んであった。

あれには、ビックリした。

コック長はほとんど毎日、琴似に飲みに出ていた。

ちゃんと正装して出かけるのである。蝶ネクタイが似合う、とっても紳士な

おじ様であった。

このおじ様、行き帰りタクシーである。

札幌支社があった場所は、西区琴似二四軒。

支社の裏は、一面畑で春になると雪解け水がたまり大きな沼ができた。

当時、二四軒は畑がたくさんあって田舎だった。

勿論、支社の近くには一軒の食堂もなかった。

夜、腹が減ったら琴似まで走ったり、歩いたりして、よくラーメンを食べに行った。

ラーメン屋は琴似駅横の飲み屋街にあった。

ラーメン太郎という名の店で老夫婦が営んでいた。

ニチロの人はツケで食べられたのだ。信用があったンだね。

太郎で先輩にビールを飲まされ、帰ってくる途中、具合が悪くなって畑で吐いた。

全部吐いてしまったので、またラーメンを食べにいったこともあった。

あの頃、琴似まで行く道路ぶちは、家よりも畑のほうが多かった。

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ラーメン 太郎

出航日決定

蔵田氏の奥さんが、私に頭を下げるのを目で追いながら、心は札幌の思い出のなかにいた。

確かその晩は、お寿司でおもてなしをしてくれたと思う。

次の日、蔵田氏が数件のホテルに電話をかけ、予約をとってくれた。

旅館もホテルも満室状態なのである。でもなんとかホテルに予約が取れたのだ。

その日からわたしは、ホテルに五日の宿泊予定で、出航の日を待つことになった。

五日間のうちに出航が決まらなければ、一日ごと延長することにした。

そして、三日たっても出航が決まらなかった場合、また、蔵田宅にお世話になる

ことになっていた。

あの頃の函館は、野良犬も歩けないほど、乗組員とその家族であふれかえっていた。

本当に、街が、人で、いっぱいだった。

わたしも函館の街を何度かぶらついてみた。

後はホテルでテレビを見ながら暇つぶしをしていた。

そんなわたしに蔵田氏から電話が入った。

「土屋さん。明日、出航になりました。」ホテル宿泊四日目の昼近くであった。

待ちに待った出航なのか。ついに来たかぁなのか、自分でもよくわからなかった。

とにかく始まりの時がきた。

船で仕事をするのは初めてである。不安もあるが楽しみでもあった。

蔵田氏が電話で日用品を買いに行ってください、と言っていた。

荷物になるので最小限必要な物だけでいい、あとは船で揃うと蔵田氏が教えてくれた。

というわけで昼から街へ出た。

ただ買い物に出てきただけであって、別段楽しい気持ではなかった。

買物から帰って日用品をバックに入れた。

荷物は全部そろった。あとは明日を待つだけ。

夜になるとさびしさがわたしを覆いつくした。

やっぱり、ひとりは、さびしい…。

ホテルの部屋に、会話が成立しないテレビの声だけが、一方的に流れてくる。

ベッドに入って、ふっと今までのことがよみがえった。

そういえばいままで、自分の将来を深刻に考えたことなどなかった。

成るようになるであった。

今回の蟹工船もそうであった。蔵田氏に全部頼っていた。

自分のことなのに、まるで人ごとのように思っていたのだ。困ったものだ。

そんなことを考えながらオカでの最後の眠りに入っていった。

今日は、朝から快晴である。

目に映るすべてが、出航を祝っているかのように感じられた。

蔵田氏と待ち合わせ場所の函館日魯ビルに向かった。

それはホテルからほど近いところにあった。

荷物を持った蔵田氏が奥さんと一緒にきた。深々と蔵田夫婦に挨拶をする。

蔵田氏の後に続いて乗船に必要な手続きをすませた。

健康診断の問診書に記入し健康診断も終えた。

いよいよ乗船の準備がはじまる。

日魯ビル裏の岸壁脇にある資材倉庫に連れていかれた。

「これから、支給品をくばります! 二列にならんでください!」

坊主頭の社員が叫ぶ。

あとでわかったのだが、この社員は新大卒の新入社員であった。

岸壁が急に騒々しくなり、数カ所長い行列が出来た。

その列は建物のなかに入り込む、何匹かの蛇のようであった。

その蛇が少しずつ前に進み始めた。支給がはじまったのだ。

わたしは蔵田氏の後について、薄暗い倉庫のなかに入っていった。

名前の確認が終わると、支給品が手渡された。

自衛隊色の毛布三枚と、薄っぺらな枕一個と、白衣上二着と帽子二つであった。

四ヶ月にもわたる作業の支給品にしては、ずいぶん少ないなぁとおもった。

支給品をもらい薄暗い倉庫から快晴の空の下へとでた。

陽の光が眩しく細めた目に、飛び込んできた光景におどろいた。

岩場で休んでいるオットセイの大群があった。

岸壁が人であふれていたのだ。           

「すごい人ですね。これ全部、ニチロですか。」

「うん、見送りの家族もいるがら…。」

「それにしても、すごいですね…。」

倉庫から出た蔵田氏とわたしは、人の間をぬうように岸壁を歩いた。

艀に近いところにすき間を見つけて荷物を置いた。

まわりを見渡すと家族ずれが輪になってたくさんいた。

親兄弟なのだろう。とても楽しそうでにぎやかであった。

何やらご馳走を広げて食べているようでもある。

声が大きいので会話が聞こえてくる。

「津軽衆だ。なに言ってるか、わがらネッしょ…。」

蔵田氏がニヤニヤしながら私に言った。

たしかに、津軽弁は早口で、まったく何言っているのか理解できなかった。

「ちょっど、兄さん。船で、もす、この子みだら、よろすぐ、頼むネ…。」

となりの輪から母親であろう人が、駄菓子をひとつかみわたしに握らせながらいうのだ。

もう片方の手で、子供の頭を押さえ挨拶をさせる。

わたしも蟹工船の経験がないから返事のしようがない。

子供を見ると頬が赤く、中学生の幼さがそのままでていた。

わたしは軽く頭を下げ、その母親から目線をはずさなかった。

なんで、子供を乗せなければならないンだ。なんで、子供だよ。

たしかにわたしの中学の同級生も、集団就職で何人も内地に働きに行った。

金の卵ともてはやされて…。

これから、われわれが向かうところは、オカの会社ではない。異国の海上だ。

途中で帰りたい、といっても帰れるところではないのだ。

屈託のない笑顔で話しているその子の姿を見ると、何やら物悲しくなった。

わたしはその親に少し憤りを感じた。

日魯倉庫



岸壁は相変わらず、オットセイの鳴き声で異様な光景を見せていた。

「乗船を開始します!」

突然、大きな声で案内があった。

急にオットセイの群れが騒がしくなる。

広げた荷物をしまう人。立ち上がり荷を背負い込む人。

見送る人と別れの言葉を交わし始めた人。

母船まで二隻の艀が往復をするようだ。

みんながそれぞれの艀に向かって動き始めた。

その艀に乗って、湾内に停泊している協宝丸に乗船するようである。

艀に近い順番に乗船が開始された。

蔵田夫婦も別れのことばを交わしていた。

「行ってくる…。」

「うん…、元気でね…。土屋さんも、元気で…。」

「お世話になりました。」

これから何ヶ月も会えないのに、蔵田夫婦は夕方にでも帰ってくるような挨拶であった。

岸壁が前にもまして騒々しくなった。

これは船の別れである。連絡船のような悲しさはないが、少なくとも船の別れだ。

だが、ドラの音も紙テープもみえない。

みんな機械仕掛けのように淡々と動いている。

まるで、母船の出航時間を遅らせないように、行動しているように感じられた。

そんなことに思いふけっていると、われわれの乗船順番が迫ってきた。

蔵田氏がチラッと奥さんを見てうなずいた。

わたしは、乗組員が艀に荷物を積む様子を見るともなく見ていた。

人によっては、荷物の数が多い人や小旅行なみの人もいる。この差はなんであろう。

というわたしの荷物もバック一個である。

蔵田さんはバック一個と段ボール箱二個であった。決して多くはない。少ない方だ。

艀に積まれた荷物の中に、一斗缶の空き缶や、大袋の塩が何袋もあった。何に使うのだろう。

そんなことを思いなが見ていると、我々の順番がまわってきた。

「いぐがい…。」

「はい。」

ニャっと笑いながら蔵田氏がわたしに声をかけた。

艀に荷物を積み込み我々も乗り込んだ。

奥さんが手を振っているのが、人のすき間から見え隠れしている。

蔵田氏もそれにこたえるように、奥さんを探しながら手を振っていた。

艀に乗ってすぐに海の上だと感じる。

数秒前まで固い地面にいたのが、急に揺れる地面に変わったからだ。

いよいよ陸と暫しの別れがきたのだ。これから何が起こるのかわからない。

今、わたしの心も、目の前の景色が陸から海へと、目まぐるしく変わっていくように、

落ち着きがなかった。

「はい! そごまで!」

人と荷物の乗り込みが終わった。 艀が岸壁をゆっくり離れた。

艀が揺れている。全身でバランスを取る。両足に力が入っているのがわかる。

人のすき間から、母船 協宝丸が見えてきた。遠くからでもデカイのがわかる。

艀が協宝丸の横腹に着いた。いよいよ、乗船である。

凪だというのに艀が揺れる。結構揺れている。

うねりがあるようだ。それにしても、デカイ! まるで壁だ。

協宝丸は、7500トンの船だと聞いていたが、母船をこんな身近に見たのははじめてだ。

母船の船腹を手で触れた。本当にデカイ!

春の陽を吸収し、少し暖かく感じられた。

艀が着いた母船の位置は、真ん中より表よりであった。

真上に蒸気ウインチのクレーンがみえる。

目線を目の前の船腹に戻し右側の表の方に移した。

船体が緩やかなカーブで舳先(へさき)を描いていた。

私はその時、協宝丸を単なる鉄の板ではなく、生き物のように感じた。

生きているモノの優しさ温もりを感じたのだ。

後で知ったのだが、協宝丸は、もとはイギリスの塩運搬船であったという。

その話を聞いたとき、あんな重いものを運んでつらかったろうと思った。

協宝丸の人生航路の一部に触れたような気がしたのである。

本当かどうか定かでない話に、ちょっとのめり込みそうになったのを覚えている。

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英国時代の塩運搬船の協宝丸


蟹工船 協宝丸の世界

記憶をたどり書き続ける ノンフィクション物語

西カムチャツカ 蟹工船 協 宝 丸

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