~しつうぶつ~ クラフト空想景・PCフリーハンド絵画・詩集
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記憶をたどり書き続ける ノンフィクション物語
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生きて・ おふくろがいいました「おまえは カラダが丈夫ではないのだよ…。母さんの愛が足りなかったね…。」と。おふくろは毎日 俺のことを気づかい俺は おふくろの優しさのなかでカラダを伸ばして 生きてきたきっと おふくろの指は血がにじむほど 祈りのために指を組んだにちがいない可哀想な 息子のために悉有仏 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 函館駅に着いて直ぐに、蔵田氏に電話をかけた。電話の呼びリンが鳴ったか鳴らないうちに、「ご苦労さん。」と少しはずんだ声で蔵田氏がでた。それから間もなくタクシーで函館駅まで迎えに来てくれた。その日はご夫婦のご好意で一晩お世話になった。奥さんが札幌の日魯の時には、主人が大変お世話になりまして…、と何度も若造の自分に頭を下げていた。それを蔵田氏が満面の笑みでみていた。そんな蔵田氏と初めて会ったのは、たしか、一九歳の秋ごろではなかったか。当時、私は日魯漁業株式会社 札幌支社の冷蔵庫勤務であった。支社敷地内には、支社事務所、食品工場、冷蔵庫、プレハブの研究室、男女独身寮が建っていた。食品工場では、ハムやカルパス、ソーセージ、魚肉ウインナーが製造されていた。その原料関連事業としてニチロ畜産が、旧冷蔵庫内の狭い一角で肉処理を行っていたのである。当時、わたしは工員三級であった。同じ高卒でも事務職の女子は準社員なのである。社員と工員とでは給料はもちろんのこと、食堂でも座る場所や食事の一部が違っていた。採用条件が違うのかどうかは知らないが、それにしてもひどい制度であった。支社事務所には、ワイシャツ、ネクタイ姿の大学卒が何人も行ったり来たりしている。その容姿は季節と共に変わるのだが、わたしのなかの一抹の不安は、季節を引きずり消えることがなかった。自分の最終学歴も考えず、将来の不安を抱え込むいっぽうであった。そんなある日、冷蔵庫に蟹工船を下船し、季節雇用として蔵田さんという人が働きに来た。痩せ形で背が高目でおとなしく、無口で少し年配の人であった。冷蔵庫は中央市場の顧客が多かったため、毎日、早朝から営業していた。そのためにわれわれも週に何度か交代で早番があった。早番の仕事は、前日出庫依頼を受けた荷物を出さなければならない。市場は朝が早い。早番もその時間に合わせて、出勤しなければならないのだ。早番の人は冷蔵庫の宿直室で宿泊するのである。そして早朝の午前二時三〇分に起きる。遅くとも、三時には冷蔵庫のプラットホーム・シャッターを、開けなければならない。我々にとっては、大変つらいものでしかなかった。でも、良いこともあった。早番の時に、工場からウインナーやカルパスのハネ品を持ってきて、よくストーブの上で焼いて食べた。腹がすいていたので、とっても旨かったのを今でも覚えている。だからわたしは今でも、ウインナーやカルパスが好きなのである。そんな良さもある早番に? 蔵田氏も勤めてまもなく早番にあてられた。その頃、蔵田氏がよく言っていた言葉がある。・ ・ これじゃ、船の方が楽だなあ…。というのだ。将来に不安を抱え込んでいた私は、蔵田氏の話しに耳を傾けるようになった。それが、耳から心へ伝わっていくのに、長い時間を必要としなかった。蔵田氏から蟹工船の話しを聞くたびに、こころは西カムチャツカの海上にあった。何も知らない蟹工船を将来の不安解消に選択したのである。心が西カムチャツカに大きく舵をきった。よし! 会社を退職して船に乗るぞ!二〇歳の大冒険の決意である。会社の人に蟹工船に乗ると言った時、全社員、全工員にバカ扱いされたものだ。その当時、札幌支社に蟹工船経験者が二名いた。一人はわたしの直属の上司であるが、見事に鼻で笑ってくれた。「オメェ!なんかに、つとまらね!」少し怒鳴り口調であったのをおぼえている。もう一人は退職を控えていた、社員食堂のコック長である。コック長が、良い経験になるから乗りなさい、俺はあの頃が一番楽しかったと言ってくれた。わたしの心はコック長のことばにしがみついたのである。コック長は函館出身で、長い間札幌ニチロに単身赴任していた。わたしたちと同じ寮生活であった。酒好きで女好き。三度の飯より競馬が好きな人であった。会社は札幌競馬場が近かったため、競馬好きが多かった。彼の着替えロッカーの半分くらいまで、ハズレ馬券が積んであった。あれには、ビックリした。コック長はほとんど毎日、琴似に飲みに出ていた。ちゃんと正装して出かけるのである。蝶ネクタイが似合う、とっても紳士なおじ様であった。このおじ様、行き帰りタクシーである。札幌支社があった場所は、西区琴似二四軒。支社の裏は、一面畑で春になると雪解け水がたまり大きな沼ができた。当時、二四軒は畑がたくさんあって田舎だった。勿論、支社の近くには一軒の食堂もなかった。夜、腹が減ったら琴似まで走ったり、歩いたりして、よくラーメンを食べに行った。ラーメン屋は琴似駅横の飲み屋街にあった。ラーメン太郎という名の店で老夫婦が営んでいた。ニチロの人はツケで食べられたのだ。信用があったンだね。太郎で先輩にビールを飲まされ、帰ってくる途中、具合が悪くなって畑で吐いた。全部吐いてしまったので、またラーメンを食べにいったこともあった。あの頃、琴似まで行く道路ぶちは、家よりも畑のほうが多かった。・ ・ ラーメン 太郎・ ・ 出航日決定・ ・ 蔵田氏の奥さんが、私に頭を下げるのを目で追いながら、心は札幌の思い出のなかにいた。確かその晩は、お寿司でおもてなしをしてくれたと思う。次の日、蔵田氏が数件のホテルに電話をかけ、予約をとってくれた。旅館もホテルも満室状態なのである。でもなんとかホテルに予約が取れたのだ。その日からわたしは、ホテルに五日の宿泊予定で、出航の日を待つことになった。五日間のうちに出航が決まらなければ、一日ごと延長することにした。そして、三日たっても出航が決まらなかった場合、また、蔵田宅にお世話になることになっていた。あの頃の函館は、野良犬も歩けないほど、乗組員とその家族であふれかえっていた。本当に、街が、人で、いっぱいだった。わたしも函館の街を何度かぶらついてみた。後はホテルでテレビを見ながら暇つぶしをしていた。そんなわたしに蔵田氏から電話が入った。「土屋さん。明日、出航になりました。」ホテル宿泊四日目の昼近くであった。待ちに待った出航なのか。ついに来たかぁなのか、自分でもよくわからなかった。とにかく始まりの時がきた。船で仕事をするのは初めてである。不安もあるが楽しみでもあった。蔵田氏が電話で日用品を買いに行ってください、と言っていた。荷物になるので最小限必要な物だけでいい、あとは船で揃うと蔵田氏が教えてくれた。というわけで昼から街へ出た。ただ買い物に出てきただけであって、別段楽しい気持ではなかった。買物から帰って日用品をバックに入れた。荷物は全部そろった。あとは明日を待つだけ。夜になるとさびしさがわたしを覆いつくした。やっぱり、ひとりは、さびしい…。ホテルの部屋に、会話が成立しないテレビの声だけが、一方的に流れてくる。ベッドに入って、ふっと今までのことがよみがえった。そういえばいままで、自分の将来を深刻に考えたことなどなかった。成るようになるであった。今回の蟹工船もそうであった。蔵田氏に全部頼っていた。自分のことなのに、まるで人ごとのように思っていたのだ。困ったものだ。そんなことを考えながらオカでの最後の眠りに入っていった。・ ・ 今日は、朝から快晴である。目に映るすべてが、出航を祝っているかのように感じられた。蔵田氏と待ち合わせ場所の函館日魯ビルに向かった。それはホテルからほど近いところにあった。荷物を持った蔵田氏が奥さんと一緒にきた。深々と蔵田夫婦に挨拶をする。蔵田氏の後に続いて乗船に必要な手続きをすませた。健康診断の問診書に記入し健康診断も終えた。いよいよ乗船の準備がはじまる。日魯ビル裏の岸壁脇にある資材倉庫に連れていかれた。「これから、支給品をくばります! 二列にならんでください!」坊主頭の社員が叫ぶ。あとでわかったのだが、この社員は新大卒の新入社員であった。岸壁が急に騒々しくなり、数カ所長い行列が出来た。その列は建物のなかに入り込む、何匹かの蛇のようであった。その蛇が少しずつ前に進み始めた。支給がはじまったのだ。わたしは蔵田氏の後について、薄暗い倉庫のなかに入っていった。名前の確認が終わると、支給品が手渡された。自衛隊色の毛布三枚と、薄っぺらな枕一個と、白衣上二着と帽子二つであった。四ヶ月にもわたる作業の支給品にしては、ずいぶん少ないなぁとおもった。支給品をもらい薄暗い倉庫から快晴の空の下へとでた。陽の光が眩しく細めた目に、飛び込んできた光景におどろいた。岩場で休んでいるオットセイの大群があった。岸壁が人であふれていたのだ。「すごい人ですね。これ全部、ニチロですか。」「うん、見送りの家族もいるがら…。」「それにしても、すごいですね…。」倉庫から出た蔵田氏とわたしは、人の間をぬうように岸壁を歩いた。艀に近いところにすき間を見つけて荷物を置いた。まわりを見渡すと家族ずれが輪になってたくさんいた。親兄弟なのだろう。とても楽しそうでにぎやかであった。何やらご馳走を広げて食べているようでもある。声が大きいので会話が聞こえてくる。「津軽衆だ。なに言ってるか、わがらネッしょ…。」蔵田氏がニヤニヤしながら私に言った。たしかに、津軽弁は早口で、まったく何言っているのか理解できなかった。「ちょっど、兄さん。船で、もす、この子みだら、よろすぐ、頼むネ…。」となりの輪から母親であろう人が、駄菓子をひとつかみわたしに握らせながらいうのだ。もう片方の手で、子供の頭を押さえ挨拶をさせる。わたしも蟹工船の経験がないから返事のしようがない。子供を見ると頬が赤く、中学生の幼さがそのままでていた。わたしは軽く頭を下げ、その母親から目線をはずさなかった。なんで、子供を乗せなければならないンだ。なんで、子供だよ。たしかにわたしの中学の同級生も、集団就職で何人も内地に働きに行った。金の卵ともてはやされて…。これから、われわれが向かうところは、オカの会社ではない。異国の海上だ。途中で帰りたい、といっても帰れるところではないのだ。屈託のない笑顔で話しているその子の姿を見ると、何やら物悲しくなった。わたしはその親に少し憤りを感じた。・ ・ ・ ・ |
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